【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨハネの福音書10章

2018年02月20日 07時17分21秒 | 福音書
先にイエスは、パリサイ人たちが霊的に盲目な指導者であることを語ったが(9章)、ここでは彼らが、偽の指導者である、否、それどころか盗人であり強盗だ、という。
当時のユダヤでは、放牧された羊たちは、夜になると町に連れ戻され、共同の羊小屋に集められた。その小屋は、頑丈な扉で守られ、その鍵は小屋の門番だけが持っていた。また、暖かい季節になると、羊と羊飼は野宿をした。町には戻らず、夜になると、羊たちは丘の斜面にできた穴の中に集められた。当然、羊が出入りする通路には、扉がなかったので、羊飼はその入り口で身体を休め、自ら門や扉の代わりとなる。羊飼をまたがない限り、どんな者もその穴の中に入ることはできない。文字通り、羊飼いは門だった。そこでイエスは言う。ご自分を通して来ない者は皆「盗人であり、強盗」だ、と。いわばイエスの血によって贖われる福音を語らずに、神にある希望を語る者は皆、詐欺師である。そしてイエスの福音に耳を傾け、イエスの羊となった者は、もはや偽牧者に耳を傾けることはない。それは見知らぬ者だからである(5節)。これが比喩の意味である。
続いてイエスは、ご自分がどのような意味でよい羊飼いであるかを語る。イエスは羊を守り、養う牧者である。羊飼いが羊を守るように、イエスを信じる者を悪い者たちから守ってくださる。そして、さらに羊飼いが羊を緑豊かな牧場に導き、養うように、イエスもご自分を信じる者の魂を養われる。しかし悪い羊飼いは、羊を世話するために来たのではなく、群れから略奪するために来たのである。そして危機が迫れば逃げ出してしまうやからである。彼らは利益のために羊を飼っているのであって、神の忠実なしもべなのではない。良い羊飼いは献身的であるばかりか、いのちを捨てるのである。
イエスは、囲いに属さない他の羊がいる、と語る(16節)。これは、後の異邦人伝道の結果として、異邦人が集められることを語っている。
こうした羊飼いのたとえは、旧約聖書で、神と神の民の関係を語るものとしてよく親しまれたものである。実際、ヘブル語で羊飼いはラアーと言うが、これは、文字通り「羊飼い」の意味で使われることもあれば、「神(創世記48:15、詩篇23:1、イザヤ40:11)」、「やがて来るメシヤ(エゼキエル34:23-24、37:24-25)」、「霊的な指導者(ゼカリヤ10:2-3)」といった、象徴的な意味で用いられることもある。そして、聖書のギリシャ語では、ポイメーンと言うが、共観福音書では、すべて文字通りの意味、実際の羊飼いの意味で用いているが、ヨハネの福音書では、象徴的な意味、神、やがて来るメシヤ、霊的な指導者、といった意味で使われているのが特色だ。つまりここでイエスは、ご自分をただ良い羊飼いであると言っているだけではなく、旧約聖書で預言された約束の救い主であると明言している。当時のユダヤ人たちは、イエスの話を聞きながら、イエスを救い主として受け入れるかどうかの決断をせまられていた。だからこそ、ユダヤ人たちの間に、イエスをどう受け止めるかで分裂が生じたのである(19節)。
さて、このヨハネの福音書を手にした人々は、まずイエスを羊飼いとして認めた人々であった。この書は礼拝の中で読まれたのだから、「羊は羊飼いの声を聞き分けます」「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」という羊と羊飼いの関係を考えさせられたことだろう。神は、私たち一人一人を覚えてくださっており、個別に呼んでくださるお方なのだ。だから、自分を卑下し、自分のような者はだめだ、神は覚えてくださらない、と思い込んでいるようではだめで、神は、私たちに目を向けてくださっている、神は羊飼いであり、ご自分の羊を大切に守ってくださる、養ってくださるという信仰を持つことが大切だ。また羊飼いは、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行くとある。羊は大変臆病な動物である。私たちも同じような者で、どのように進んだらよいのか、全く自信もなく、不安を抱くばかりで先に進めないことがある。けれども私たちは、見知らぬ道を一人で進むわけではない。むしろ、私たちの側に、どこか、羊飼いである神の声に耳を傾け、ついて行くことがなくてはならない。それが羊の生活なのである。
さてこのたとえが語られたのは、エルサレムで宮きよめの祭が行われた冬であった。この祭はアンティオコス・エピファネスによって冒涜されたエルサレム神殿が,ユダ・マッカバイオスにより奪還され、聖別浄化されて再奉献されたことを記念し(BC165)て守られたもので、今なおユダヤ人によって守られている。
この宮きよめの祭は、ヨハネだけが取り上げているのだが、そこに老ヨハネの回想の意図もあるのだろう。つまり、イエスの存在は、偽預言者によって冒涜されたエルサレムの神殿を奪還し、古いイスラエルを聖別浄化し、イエスをキリストと信じて、永遠のいのちに生きる新しい民によって、神に再奉献される、ということである。父と子は、一つであり、イエスは、その父の意思を成し遂げようとしていたのである(30節)。
当時のユダヤ人が、これらのことをどこまで気づいたのかわからないが、イエスの語ることに不快感を示したことに間違いはなく、イエスを石打ちにしようとした。イエスの忍耐深い対話に教えられるところである。イエスは、詩篇82:6を引用し、神の言葉を受けて民を裁く人々が神から「神々」の称号を与えられていることを指摘する。そうならば、ましてイエスが「神々」よりも劣る称号である「神の子」と自分を読んで冒涜者呼ばわりされる筋合いはない。実際のところ、イエスは「神のことば」、つまり神そのものであった。また、イエスはさらにダメ押しで、語る。「わたしのわざを信じなさい」つまり、語っていることと同時に、何をどのようにしているかに注目せよ、ということだ。イエスの行動は、イエスのことばを確実に証しするものだ、というわけだ。こうして、イエスを受け入れた人々がいた。大事なことは、ヨハネの福音書を読みながら、イエスが何を語り、何を行っているかを理解することである。そしてその語り行ったことの意味を考えることだ。信仰は聞くことに始まる。





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