毎日のできごとの反省

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文学は広義のエンターティンメントである

2018-02-19 14:57:02 | 芸術

 文学は広義のエンターティンメントである。つまり娯楽である。娯楽と言っても、ただ面白、おかしいだけ、という意味ではない。文学を鑑賞することで、何らかの精神的な楽しみを享受することができる、という意味である。それ以外に何の目的が文学にあるというのだろう。文学がエンターティンメントであることは、その価値を少しも減ずるものではないことは、言うまでもない。

 二葉亭四迷は、文藝は男子一生の仕事にあらず、と断言しながら、最後には生活費としての給料をもらうために、其面影というエンターティンメントとしての傑作である、恋愛小説を書いた。それは二葉亭が文学とはエンターティンメントである、ということを理解してしまったからであると思う。

元々二葉亭が、将来の敵性国家のロシア語を学ぶうちに、ロシア文学に傾倒したのは、ロシア文学が革命運動とリンクして、政治的価値を持つものだと誤解したためだということは、本人が吐露している。

 それならばロシアにおいてなら文学はエンターティンメントではないのだろうか。そうではない。ロシア文学に傾倒したロシア人が、エンターティンメントである文学から、革命思想を引き出したのである。ロシアにおいても、文学における革命思想とは、エンターティンメントの題材のひとつに過ぎなかったのである。いくら書いた小説家自身が、本気で革命思想を書こうとしていたとしても、である。

 このことは、多くの日本人が漱石の作品を読んで、明治の思想を理解しようとしているのに似ている。もし、エンターティンメントではなく、思想を論ずることが漱石文学の真の目的ならば、漱石文学に書かれた思想が間違っていれば、漱石文学は価値がない、という奇妙なことになる。亡くなられた渡部昇一氏は、漱石は若くして死んだ、と喝破した。確かに漱石が死んだのは49歳という若さである。

80歳を超えた渡部氏には、漱石文学に書かれた思想の未熟さを言ったのである。後年、小宮豊隆らの高弟が、漱石を聖人のように持ち上げることの方が尋常ではない。だからといってエンターティンメントとしての漱石文学の価値は少しも減ずることはない。文豪、と呼ばれる人たちの言葉を、思想の論理として真に受けるのが間違っているのだ。だから思想を語っても正しいとは限らないし、情感に訴えるエンターティンメントなのだから、論理的に正しいか、否かは関係ないのである。

 鴎外は、小説がエンターティンメントに過ぎないことを理解し、北條霞亭のような史伝に逃避したように思われる。大塩平八郎の乱などの歴史小説といわれるものを描いた結果、思想を小説で表現することの無駄を理解したのである。伊澤蘭軒などの史伝は、エンターティンメントたることを放棄し、単に鴎外自身の知的興味を満足させるために書いたものとしか考えられない。鴎外の史伝を高く評価する専門家は多い。

しかし、エンターティンメントたることを放棄した以上、小説の形式をとってはいても、文学の範疇には入らないとはいわないが、文学としての価値は低い、と言わざるを得ない。鴎外自身もそのことは充分承知していたはずである。小生も伊澤蘭軒を無理して読もうとした。何日に一度、2~3ページずつでも読んで、何年かかけて読破しようとした。

しかし、読むことから精神的楽しみを得られない自分自身に素直になって、読破を放棄したのである。だから小生は伊澤蘭軒を四分の一も読んではいない。史伝の類でも、初期の渋江抽齋は読み終えた。一見淡々と文学的装飾をした文章の中に、時々色気らしきものを感じ、それを充分に楽しむことができたのである。

鴎外が伊澤蘭軒その他を書くことができたのは、悪く言えば自身の文学者としての名声を悪用したのである。鴎外はこれらの史伝を文学として楽しむことが出来るのは、例外的な人物であることを知っていたとしか考えられない。

鴎外の名声がなかったら、これらの史伝に類するものは出版することもできず、購入する読者もいるはずがなかったのである。そのことは、芥川賞を取ったから、その作品を買う者がいるのと、同様である。だから芥川賞を取った作家の作品でも受賞直後だけ売れて、その後の作品が面白くないから売れず、廃業せざるを得なくなる場合があるのである。

 芸術には目的があるといった。文学の目的はエンターティンメントである。つまり精神的な娯楽である。文学はコミックなどと違い、文系の学術書と同様に、主として文字によって表現をする。そこで人は、文学に思想を求めてしまうのである。特に純文学と呼ばれる作品には、そのように扱われる傾向が強い

 推理小説だとか、SFだとか、歴史小説は、単に特定の題材に特化しているのに過ぎない。刑事や探偵などによる推理を主題としているから、推理小説と呼ばれるのである。エンターティンメントの題材を、特定の分野に絞っているのに過ぎない。文学に思想を求めること自体は間違ってはいない。ある時代に書かれた以上、その時代を背景とした思想がある可能性があるからである。

ただそれは文学を楽しむのではなく、文章を解剖する作業である。思想を考える上でのネタにしているのである。かと言って文学評論の中にそのようなものが含まれていても間違ってはいない。ただし、文学から思想を抽出しようとする作業だけしているのは、文学評論とは言えない。繰り返すが、文学に書かれた思想が正しいか否かは、文学の価値の評価とは別の話である。


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