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監督ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本ジュゼッペ・トルナトーレ
製作Isabella Cocuzza
Arturo Paglia
出演者
音楽エンニオ・モリコーネ
撮影ファビオ・ザマリオン
編集マッシモ・クアッリア
製作会社Paco Cinematografica
配給イタリアの旗 ワーナー・ブラザース
日本の旗 ギャガ
公開イタリアの旗 2013年1月1日
日本の旗 2013年12月13日
上映時間124分
製作国イタリアの旗 イタリア
言語英語
製作費$18,000,000[1]
興行収入$18,028,413[2]
2億7000万円[3] 日本の旗
Wikipediaより

yahoo!映画:3.8/5.0
amazon:3.7/5.0

総合評価 ⭐️⭐️⭐️⭐️
脚本 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
配役 ⭐️⭐️⭐️
演出 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
映像 ⭐️⭐️⭐️⭐️
音楽 ⭐️⭐️⭐️⭐️



アカデミー賞受賞歴はないものの、2年前から興味を持っていたイタリア映画を漸く見れました!

転職して働き始めたばかりでクタクタで、夫も仕事、親も仕事の一人きりの年末。友人と予定が合わないと、一人で粧し込み、少し良い食物を自分へのご褒美として食べに行きました。

この映画の主人公が、キリっとした出で立ちで高級料理店で食事をする姿を見ると、主人公ほど高級な店には行かないものの、私も似たような存在だと感じられたため感情移入してしまいました。

amazonビデオパッケージを眺めていると、沢山の高価な美術品に囲まれた独身の金持ち男性にとっての幸福は何だろうか、と問いかけているように私には感じられました。



映画を観て、確かに人間らしい暮らしとは恋愛を楽しむことかもしれないと頷けました。

しかし、孤独な人が恋愛を夢見て過ごす方が絵を愛するより幸福なことではないか、という恋愛好きなイタリア人男性監督の主張については、人好き好きの自由もあると思ったので反発心を覚えました。2次元より3次元の世界で生きた方がよいという主張は理解できます。

ただ、私が芸術や学問を愛する人でなければ、このブログも書いていないでしょう。現実ではないものに囚われる幸福については、理解できる立場です。

「ニューシネマパラダイス」、「海の上のピアニスト」のジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品だけあり、男の恨みや妬み、思い通りにいかない恋愛と回想、世知辛い現実が生き生きと描かれていました。



天才美術鑑定士として名を馳せる初老のヴァージルは、女性経験のない裕福な独身男性。

常に黒い革手袋を身につける潔癖さがあり、人との関わりは最小限でした。

高級レストランへ定期的に一人で通い、自分専用食器で食事をとる姿を見ると、こだわりを感じ、社会性は低いのではないかと思いました。

隠し金庫に美人画を収集し、完璧な絵画の女性達へ愛情を注ぎ、絵画から愛情を得て暮らす、主人公は彼なりの安定した暮らしを築き満足していました。



友人のビリーは、自分の絵をヴァージルが認めてくれたら画家としての道も拓けた、とヴァージルを何度も詰ります。

ヴァージルは、ビリーのそんな苦痛に全く配慮できず、良い物は良いと判断して真実を追求します。彼は気付かずにビリーを期待で釣り、ビリーを利用する歪な友人関係を築き、社会的成功を収めていたのでした。

初め、ヴァージルは嫌な老人として描かれていて、こだわりや社会性、対人関係からアスペルガー症候群のような男性なのかもしれないと思いました。



ある日、両親を亡くした27歳の女性クレアからヴァージルに財産の鑑定依頼が入ります。

強引な依頼を嫌々引き受けて出向くと、依頼人は交通事故にあったなど嘘をついて現れません。彼女の財産にめぼしい物はありませんでしたが、地下室で見つけた歯車にヴァージルは興味をもちます。

その歯車をこっそり持ち帰りロバートという才能ある機械工に見せると、主人公が学位論文を書いたオートマタ(西洋のからくり人形)に関する歴史的発見に繋がりそうだとロバートは彼に告げます。主人公は、クレアの財産に興味をひかれてしまいます。

ヴァージルは、クレアの目を盗んで地下室に転がる部品を持ち出し始め、屋敷の手伝いの男も買収し、地下室で見つけた部品を車の鍵をヴァージルから借りて車へ運ぶのを手伝わせていました。初めは、ヴァージルがクレアの目を盗み、騙すように自身の成功を夢見ていました。

なお、ロバートに報酬を仄めかしヴァージルが釣ろうとする場面では、仄めかしが上手いとロバートに指摘されていました。



そのように他人を自然に利用してしまうヴァージルが、男性の抱きがちな救世主になりたいロマンに目覚めて騙されてしまう話は滑稽でした。

美術鑑定がいくら得意でも、美人をみる目がないという女性経験のない男性の直面した現実は、普通の異性関係を築く多数の観客には喜劇のようでした。

鑑定依頼人のクレアは、姿を見せず、対人恐怖を抱える広場恐怖症だと語ります。しかし、ヴァージルは帰ったと誤解してクレアが部屋から出てきて電話で仲間とだべるシーンは俗っぽかったです。姿を現さないことで醸し出された崇高さや緊張感は微塵もなく、胡散臭く感じました。

それでも、10年以上もクレアは自宅の隠し部屋へ引きこもっていることにヴァージルは気付かされ、両親の逝去や精神障害、自分に似た境遇に同情したのか、嘘を繰り返すこの女性を容易に信じてしまいます。これには、若い美人に男性が弱いものだと呆れる他、私には理解できない流れでした。

広場恐怖というより、美しい声のクレアはDV加害者のように、ある時は優しく、ある時は狂気じみた精神的暴力をみせます。不安定で思い通りにならない、そんな下品な束縛にあっさりと純粋なヴァージルは騙されて惹かれてしまいます。

若い彼女クレアと連絡するため、大嫌いな携帯電話の使い方すらヴァージルが学んでしまいます。恋愛経験のある観客は、ロバートのようにヴァージルに対して優越感を感じてしまいそうでした。

クレア母親の肖像画には美しいヴァレリーナが描かれています。隠し部屋の扉の下から差し出された期限切れのパスポートには美少女の写真。

ヴァージルは、自分に似た隠し部屋に自閉する、人を信じられないクレアを救い出したくなってしまい、まんまと仄めかしに好奇心を駆られ、釣られてしまいました。



ロバートは、ヴァージルとの仕事の場面でも私生活を持ち込み、複数の美女といちゃついてヴァージルの孤独を煽ります。

このロバートの行動は、単に性依存症タイプの男性を描いていただけかもしれませんが、ヴァージルの競争心や嫉妬を引き出し恋を加速させているようにも見えました。

発達障害も性依存症を疑う男性は周りによくいるものです。彼らは、被害者かつ加害者であり、騙す人ほど容易に騙されるかつての被害者かもしれません。

分かっているけど止められない強迫に似た状況に囚われやすい男性の描写に現実味を感じました。



ヴァージルが恋に目覚めると、仕事でミスをするようになり、初めは知人の話としてロバートに恋愛相談を始め、ビリーにも打ち明け、人間らしさを見せ始めるジェフリー・ラッシュの好演に観客の好感度は高まります。

恋愛相談は功を奏し、ヴァージルはクレアと対面できるようになります。クレアに孤児として生まれ修道院で育つなか、悪事を働く罰として美術品修繕の手伝いをして鑑定技術を身に付けた生い立ち話をヴァージルは始めます。ヴァージルの背景を理解することで嫌な老人でもなくなり感情移入しやすくなります。

クレアは恋人を交通事故で失った話をして、ヴァージルの同情をさらに引きます。

ロバートがクレアの話ばかりをするという、ロバートの彼女からのヴァージルへの相談があり、ヴァージルはロバートとクレアが交際しているのではないかという疑惑をもちます。

ヴァージルが質問しようとすると、ロバートは「仕事に私生活を持ち込むな」と身勝手に一蹴。さすが犯罪者です。ロバートは、クレアとの仲を焦りすぎないよう制止するので、観客もロバートとクレアの関係を疑います。

それでもなお、年の離れた二人はロバートに反発でもしたのか、愛し合います。ヴァージルが富も名声も愛情も手にする話に反感を抱く人もいるかもしれません。しかし、その直後、暴漢にヴァージルが襲われ大怪我をするので、観客はスッキリしてヴァージルへ同情できました。

クレアは自宅から駆け出しヴァージルを病院へ運び救うことで引きこもりを抜け出し、ヴァージルの奇妙な美人画収集癖も許容し、ヴァージル宅で同棲を始めるという美談が展開していきます。

クレアが気に入らないといえば、人生を捧げてきたはずのオークションパンフレットもヴァージルは破るほど恋に盲目で、痛々しいほど哀れな老人に観客は同情し始めてしまいます。



ヴァージルが盲目になるほど、観客はヴァージルに降りかかる災難の予感の高まりを覚えます。

ヴァージルの留守中、ロバートとクレアは一緒に外出しているようでした。

クレアの家の前にあるカフェから、美しいとは言えない小人症で抜群の記憶力を発揮するサリヴァン症候群のような中年女性がヴァージルの姿をじっと眺め、数字を数え上げていました。

醜い犯罪と下品な喜劇を上品で甘いエン二オ・モリコーネのクラシック音楽が格調高く不調和な雰囲気にまとめていました。



クレアと結婚するため仕事を引退しようとヴァージルが最後の仕事をイギリスで終え、仲間から拍手喝采を浴びて帰宅すると、やはり心配していた伏線が回収され始めます。

ヴァージルの美人画コレクション全て消えていました。それからクレアもロバートも消えていました。

部屋には歯車や部品からロバートが完成させた歴史的発見とは言い難い粗末なオートマタが置かれています。オートマタは「どんな贋作にも本物は潜む」と繰り返し語っていました。

ロバートの裏切りは想定内でしたが、クレアの母親を描いたという肖像画の裏にビリーの署名とメッセージが記載され送られてきたことは、私には予想外でした。

クレアが消えれば、クレアの面影に似たこの絵にヴァージルは価値を置かざるをえず、あざといビリーの嫉妬と復讐だと思いましたが、ヴァージルはビリーの絵に惹かれることがなかった点はスッキリしました。

ヴァージルは、利用してきた仲間の作品を目にかけず、詐欺に気付けず、ビリーがロバートやクレアと共謀した大掛かりなハニートラップにかかり裏切られました。



心を開いてズタズタに傷つけられたヴァージルは施設で廃人のように過ごしますが、回復していきます。

時間軸の理路整然としていた前半とは異なり、いつのことなのか分からないような断片的映像が続き、ヴァージルのショックの大きさが表現されていました。

ヴァージルは、車のトランクに発信機を見つけ、GPSでロバートに監視されていたことへ気付きます。

またヴァージルは、クレアの家の前にあるカフェで、本当のクレアはいつも注視していた小人症の彼女だと知り、本当のクレアが自宅を映画撮影のために貸し出していたことを知ります。

さらにヴァージルは、本当のクレアの驚異的な記憶力により偽クレアが100回以上も外出を繰り返していて引きこもりではなかったことを知ります。

ヴァージルが美しくない本当のクレアに興味を持てれば、高級店だけでなくカフェで紅茶の一杯でも飲めば、詐欺に気付けていたのかもしれません。美人に鼻の下を伸ばした裕福な男性が転落する図は、美人な恋人がいない貧しい人々には心地良さそうな展開です。

騙された後も、ヴァージルの元・執事が面会に来て郵便物を運んでくれて、権力だけの繋がりではない人の暖かみにもヴァージルは触れることができました。

結婚はオークションに似ており、妻は最高の競売品なのかを考え続けていると語る執事は、天才美術鑑定士ヴァージルが最高と評価したクレアの贋作ぶりに胸を痛めたのでしょう。

ヴァージルは、被害を警察に相談するかを悩みますが、自身のイカサマがバレるのを恐れたのか、詐欺被害のなかにも自身の成長を見いだしたのか、リハビリのみに専念します。

ストレス障害の治療で、重力に抵抗するかのような謎のマシン内を走ってリハビリしていました。セレブの最先端リハビリだと提示されたのでしょう。

リハビリ施設ですら、どうやらまた騙されて奇妙な機械を使ってリハビリさせられている姿が描かれており、裸の王様のように見えて滑稽でした。



最後に「この先何があっても愛している」というクレアの言葉や情事をヴァージルは思い出し、彼女が語っていた初恋の彼と楽しく過ごしたというプラハにあるデイ&ナイトという店の近くに新居を借ります。

店員に一人かどうかを問われると、「連れを待っている」とヴァージルは答え、楽しく談話する騒々しい店の中で孤独にクレアを待ち続けます。

クレアの自作小説は、恐らくこの詐欺のシナリオだったのでしょう。しかし、クレアは、自作していた小説の最終章をハッピーエンドに書き換えると語っていたかもしれません。

彼女が書いた脚本が、現状のヴァージルの姿を示すなら、これはハッピーエンドなのか、という余韻が残るラストシーンでした。



監督は、恋愛至上主義のイタリア人男性かもしれず、詐欺師の彼女を助け出そうとして、主人公が彼女に仕事からの自由や幸福を授けられ救われた、というハッピーエンドを描いたのだろうと想像しました。

ただ、多くの観客は、犯罪者クレアがヴァージルに夢を持たせることにしただけで騙され続けるヴァージルを不幸な老人と捉えるはずで哀愁漂うラストでした。一時の愛情があったとしても、年齢差や美醜を考えるとヴァージルの勝算は低いことを観客は予想してしまうからでしょう。

そうした格差が大きいほどヴァージルにとってクレアという報酬は大きく、可能性が低い大きな報酬を夢見ているわけで、ギャンブル依存の男性にも似ています。まずい結果になると分かりながらも、ハラハラドキドキに胸を踊らせ、彼らの目はいつもキラキラしています。それが老後の幸福なのか。

本当に、絵より異性と出会う人生の方が成長で幸福なのか、と私は戸惑いを覚えました。今は記憶のなかの彼女に惹かれていても、新しい暮らしのなかで庶民に混じり恋愛に憧れる彼には新しい恋に巡り合うかもしれない希望があるのでしょうか。これが主人公の成長なのか。

監督が繰り返し描かれる思い通りにはならない世知辛い現実には、心から共感できました。



「どんな贋作にも真実は潜んでいる」という台詞が、美術品鑑定だけでなく、友情、愛情といった信頼関係を仄めかしていました。

資産家のヴァージルが常に騙されながら、騙されるリスクがあっても、誰かを信じようとする人生には、たとえ犯罪被害にあおうとも一定の価値があると言いたいのでしょうか。

騙す側より騙される方が幸せなのかもしれず、仕事中心の哀れな男性が、恋愛に夢中になる話にスウィート・ノーベンバーを思い出しましたが、仕事から逃れ女性に支配される男性は幸せなのかもしれません。

ヴァージルは、精神を病んだ後なので、おそらく来ない恋人を待ち続ける恋愛は妄想じみている面もあるとしても、人生の幸福や人間らしい暮らしとは、思い通りにならない人生のなかで恋愛の成功体験を回想し夢を見るものではないか、という主張に、多くの人が共感するのか、と思いました。

異性を好むことを人間らしく自由だと思いますが、異性以外でも人それぞれ好みは違ってもよいのではないか、と私は思う部分もあります。プルーストの失われた時を求めてに出てくるマドレーヌと紅茶のような、自分が価値を置くものを信じられる多様性を認める自由も大事にしてしまいます。



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