幼少時の旅回り一座から漫才に進み、ラジオ・テレビの名司会役、そして自作自演の芝居にと大活躍したミヤコ蝶々が亡くなったのが、2000(平成12)年10月12日のことであった。
芸の世界に身を投じて70余年。
自らの苦労や哀しみを、お客さんが喜んでくれるのならとさらけ出し、どうしたら人を笑わせられるか、涙を流させられるか、その一点に集中して、その生涯を「お笑い人生」に没頭した人であった。
このような大阪のラジオ番組で新作漫才をやる時には秋田から台本をもらうのだが、それも本番の2、3日前。
学校に行っていない蝶々が書けるのはひらがなだけで、読める漢字もそれほど多くはなかったため、台本に読めない字がある度に、相方の鈴夫(南都雄二)に「これ何とゆう字?」と聞いた。
何度も「なんとゆうじ?」と聞いているうち、いっそ芸名にしてしまおうと思いついたという。
それまでの上方トンボと言う名が気に入っていなかった鈴夫も喜んで、「南都雄二」に決まったというエピソードがあり、このころコンビ名も「ミヤコ蝶々・南都雄二」に改名されている。
人気の漫才学校に続いて、同じく、朝日放送で1955(昭和30)年6月に放送開始の夫婦対談番組「夫婦善哉」の司会をコンビで務める。
当初の正式タイトルは「蝶々・雄二の夫婦善哉」だった。
番組は毎回一般の夫婦を招き、蝶々・雄二の2人が結婚生活の極意や新婚時代のエピソードを絶妙な間で聞き出すという形で進行。現在の「新婚さんいらっしゃい!」へと繋がる夫婦対談番組の先駆的存在として人気を博し、番組はラジオで8年間、その後テレビで12年間、計20年間も放送された。
上掲の画像は、1961年南都雄二さんとの万歳風景。朝日新聞2000年10月13日付より。
しかし、この「夫婦善哉」の開始当時、司会の蝶々・雄二もまた実際の夫婦であり、「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不安であったという。
1958(昭和33)年に雄二の不倫がもとで「離婚」(法的に婚姻関係でなかったため、事実婚を解消)するが、
その後も数年は公にせず2人はコンビで「夫婦善哉」の司会を続けていたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白。
これが、かえって自分たちの結婚生活での体験を素直に話すことができるようになったせいか、よりリアリティのあるゲスト夫婦の体験談を聞き出しやすくなり、多くの視聴者の共感を得たようです。
雄二とは離婚後も、公私共に付き合いは続き、1972(昭和47)年に雄二が糖尿病を悪化させ入院し、翌・1973(昭和48)年に48歳で亡くなるまで、後妻に逃げられ、身寄りもない雄二さんの、一切の面倒を見続けたのは蝶々だった。
葬儀の日。「親子でも、夫婦でも、兄弟でもない私と雄二さんが、愛情をも超えた深い絆で結ばれていたことは間違いない」・・・と。蝶々は、雄二を「友人代表」として見送った。
“いつも言いますが、一番大事なのはお客さんです。たとえ劇場の人がいらんとおっしゃろうが、お客さんが私を見放さん限り、私はついていきます。
「あんたが頼りや。死なんといてや。」街で声をかけられます。
私みたいな頼りない人間でも、そんなに言われると勇気づけられる。生きようと思う
70年以上にわたって笑いと涙を振りまき続けた蝶々。その芸の先にはいつも庶民がいた。
芝居、ラジオ、」テレビ、映画と見せる場は違っても、社会を意識し、世相を映した芸へのこだわりは変ることはなかった。その芸人魂は、弟子や芸人仲間へと同様自ら対しても厳しかった。
企画、プロデュース、脚本、演出、そして、主演。そのすべてをこなし、「浪花」を描き出せる女性の役者が大阪からいなくなってしまったのが寂しい。
(ラジヲですので、聞きにくいところが有りますが、お許しください)
運と災難 ~ミヤコ蝶々・南都雄二~
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