83歳爺ちゃんの音楽ボランティの記録日誌!!最後の最後まで書き続けますのでお付き合い宜しくお願い致します!!

高齢者音楽ボランティアSWINGの出前演奏記録です。
羽曳野市を中心に近隣市で演奏活動を行っています。

SWINGの歌手紙(121) 70年前の回顧録!終戦後に日本語がローマ字表記に?

2015年04月19日 19時47分39秒 | 日記

音楽ボランティアSWINGの歌手紙(121)

70年前の回顧録!

終戦後に日本語がローマ字表記に?

*****2015年4月19日日曜日*****

下記BLOGも同時UPしています。

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Gennzai 18ji20punn sotoha kumorizora.

大東亜戦争が1945年(昭和20年)8月15日終戦を

迎え、母親たちが咽び泣きをしているのにつられて

泣きましたが!!

私は悲しみよりも、父が戦場より帰ってくるかも

知れないこと、

空襲がなくなり夜に電灯が明々とつけられる喜びが

大きかったのを覚えています。


電灯の周りに垂れ下がっている黒い布をはずし

明るくなった部屋を弟たちと大騒ぎをしていました!!


ラジオからは「警戒警報」や「空襲警報」が報じられなくなり!

洋楽が流れるようになりました。


流行歌で一番先に流行ったのが、並木道子さんが

歌う「りんごの歌」でした!!


「赤いりんごに 唇寄せて・・・」と明るい歌声がラジオから

流れてきて、覚えるのに一生懸命でした。


初めて進駐軍の兵隊が私たちの住宅に現れたのも

この頃でした、遊んでいた広場に銃を片手に持って

ジープで現れました、そして手招きをしています、


初めは恐々でしたが、中に日本語が話せる日本人の

顔をした兵隊がいて、チョコレートを片手にし

おいでおいでをしながら「これをあげる」と言って

近づいてきます。


その優しそうな顔に安心し一気に私を含む皆が

取り囲みます、母親たちはそれを遠巻きにしながら

「行っては駄目」などと叫んでいましたが、


チョコレートに目がくらんだ私たちは耳に入りません!!

その味の美味しかったことは、記憶にしっかりと

残っています。


私が中学2年生1946年(昭和21年)頃だったったか?

日本語がローマ字表記になると、言う噂が広まりました。


それも何の抵抗も無く受け入れていました。

やがて中学校ではエスペラント語なるものの

講座まで有り、勿論正規の学科ではなく

部活動としてでしたが、もの珍しさも手伝って

放課後に講義を受けに行ったことがあります?


私の行っていた中学校は大阪では有名な

当時は5年制の男子の私立中学校でしたので独自の

授業を行っていたように思います!


音楽も若くて綺麗な女声の先生でおそらく

臨時の補助先生だったのではと思います!!


「埴生の宿」や「スワニー河」などの歌を習いました!!

私は母がいつも口ずさんでいましたので、

すぐに歌え先生に注目される存在となりました。

嬉しかったですね、たぶんその先生に恋心を

抱いていたと思います、淡い初恋だったのかな!!


しかしその恋も長くは続きませんでした、

1年ほどで止めて行かれました、結婚されたとか?

はかなくもその恋は破れてしまいました!!


私の10代初期は波乱万丈の時代でした!!

その為か記憶も鮮明に残っています!!


その記憶も選ぶ道によって様々な道を通る

ことになります!


ローマ字も2種類有りヘボン表記で書いてみました。

間違っているかもしれません。

dewa korede shithurei  ithashimashu!!

SHAYONARA!!









 


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