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渡辺京二 『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』 司馬遼太郎批判

2018-05-16 13:39:36 | Weblog

指導をいただいた先生が言っていた。学者には二つのタイプがあるという。寿司屋か、乾物屋かだ。今日仕入れたネタを今日出すのか、時間をかけて乾燥・熟成させてから出すか。僕のこれまでの会社員生活はまさしく寿司屋だ。これからは、残された時間でどんな乾物をつくろうか。

 

『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』(渡辺京二著 平凡社 2014年刊) 司馬遼太郎批判 

ひと昔前の政治家なら、好きな作家は誰かと聞かれて、保守・革新を問わずほとんどが「司馬遼太郎」と答えていたと記憶する。歴史に関心の強い人たちも圧倒的に司馬ファンが多かったと思う。偏屈物の僕は、何となく司馬は怪しいと疑っていた。

僕の司馬体験は、1969年のNHK大河ドラマ『竜馬が行く』を観たこと。原作は、ずっと後になって1980年代後半、30歳代の頃、正月休みに一気に読んだ。僕らが持つ坂本龍馬のイメージ、薩長同盟成立のキーマン、亀田社中をつくり世界を駆け巡る貿易商、これらは司馬作品からの影響が強いことによるものだろう。

本書『幻影の明治』第三章「旅順の城は落ちずともー『坂の上の雲』と日露戦争」は、見事なまでの司馬遼太郎批判になっている。何となくぼやっとしていた司馬の正体を作者は痛烈に浮き彫りにした。

印象に残ったフレーズを引用する。冒頭から、「とにかく小説と銘打ちながら、講釈につぐ講釈で、その中身もとても本気でつきあえる代物ではない。」と厳しい。「断片的な小説の部分を長大な歴史講釈でつないでゆくというこれまで誰も試みなかった(松本清張に同じ傾向があるが)作りになっている。」最近、清張の遺作『神々の乱心』を読んだが、その通りだ。

「司馬は、明治日本のゼロから始まった近代化が成功したのは、世界史上の奇跡にほかならぬといいたいのだ。」「明治の軍部は、昭和の軍部のような精神主義の阿保ではなかった。そう物語ってみせることによって、彼(司馬)は、敗戦によって自己喪失した日本人に自信を取り戻させた。」戦後の国民の気分にマッチしたから、渡辺京二氏が指摘するように史実の解釈が歪んでいたとしても、国民的歴史作家といわれたと思う。

明治150年めぐる動きは今のところ静かだ。

 

 

 


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1 コメント

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一神教VS多神教的構図 (グローバルサムライ)
2024-03-26 15:55:06
ローマ人の物語」などで有名な歴史小説家塩野七海先生も「多神教徒である日本人が世界で主張すべきこと」で似たような見解をお持ちですよね。日本に根差したグローバルサムライ哲学みたいなもの(よくわかりませんが国学の発展形?)を哲学者はなぜ追求しようとしないのでしょうかね。

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