山に越して

日々の生活の記録

山に越して 乖離 第三章 4-4

2014-12-19 16:38:45 | 長編小説

 四 佐知子

  慎一は月の始め二十九歳になっていた。その日、会社に戻って来るのが遅くなり事務所には佐知子一人が残っていた。

「お疲れさまでした」

 慎一が自分の席に着き帰り支度を始めようとした時だった。

「おめでとう御座います。これを!」    

 と言って小箱を置き、振り返りもせずドアを開け出て行った。慎一は仕方がないと思った。これまで成る可く距離を保ってきたのだが、直接的に出られては為す術がなかった。贈り物は何時も締めているネクタイより幾分派手だったが、翌日はそのネクタイを締めて行かざるを得なかった。佐知子の、幼い思いを大切にして行くことが求められた。慎一は小声で「有り難う」と言って、席に着き仕事を始めた。特別佐知子のことを意識する必要はなかったし、時が経てば忘れるだろうと思っていた。

 一週間後帰りが偶然重なったのか、途中で佐知子が歩き方を早めたのか、駅のホームで一緒になってしまった。クリスマスだったことも関係していたのだろう、調布まで来ると電車を降り食事をしていた。

「誕生日おめでとう御座います」

 ワイングラスを重ねながら佐知子はさも嬉しそうに言った。

「いつの間にか二十九歳になってしまった」

「河埜さん、とっても若く見えます」

「でも、来年は三十歳になる。仕方がないと思うけれど、これから先どうなって行くのだろう」

「河埜さん」

 と言ったまま、佐知子は俯き喋ろうとしなかった。

「私とお付き合いして戴けないでしょうか?河埜さんのことが好きなのかも知れない。入社した頃からそう思っていました」

  慎一の目許を見ながら、佐知子は意を決したかのように言い切った。日常の、何気ない態度から察していたのだが、クリスマスの雰囲気がいけなかった。それに、いとも簡単に心情を打ち明けた佐知子に戸惑いを感じた。

「飯山さん」

「私、好きな人がいました。でも、別れました。理由なんて無かったのですが、私が働いていたからだと思います。あの人、未だ大学に行っています」

 慎一の言葉を聞きたくないかのように佐知子は言った。

「相手の気持ちは確かめた?」

「いいえ、自然に会うことが無くなりました」

「就職してから寂しかったんだ」

 話の筋を自分のことに戻したくなかったが、慎一は余計なことを言ってしまった。

「そうかも知れません。でも」

「若いときは二度、三度と恋をして成長して行くと思う」

「河埜さんが初恋ではありません」

「そう言うことではなく、何度も恋をすることで、自分にとって何が必要であり不必要なのか分かってくるようになる」

「河埜さんのこと何時も考えていました」

「佐知子さんは若くて、可愛くて、素敵な恋人が出来るようになると思う」

「そんなこと聞きたくありません」

 慎一は弱ってしまった。今後の、自分のことに付いて話すより仕方がなかった。

「以前から考えていたことですが、遅くても数年先には静岡県に帰り農業をしようと思っています。俺の故郷は奥深い山里で、人家も疎らにしかないところですが、其処で椎茸栽培や水田で山葵を作り暮らそうと思っています。農閑期には、土木工事かタクシードライバーを仕事にする積もりです」

「会社は?」

「会社員も、営業も向いていないことに気付きました。このまま東京にいても給料で食って行く生活しか有りません」

「でも!」

「田舎に帰って老いた両親の面倒を看ることになると思います」

 佐知子は口を噤んでしまった。

 

 即物的に求めることが可能なら佐知子と共に生きて行くことも可能になる。物欲と肉欲を満足させ、惰眠を貪り、社会的な生活を約束させ、安逸に暮らして行くことが出来る。しかし、展望無く閉塞した状況は屡々何も見えなくさせ、佐知子のことを愛したとしても煩わしい関係しか見えて来ないだろう。

 慎一は佐知子と別れるとつつじヶ丘駅を降り居酒屋に入っていった。終バスの時間が来ていたが歩いて帰ろうと思った。クリスマスの宵、雪になり切れない冷たい雨が降り出していた。慎一の身体を洗い流すかのように降り続いている雨に傘は必要ないだろう。慎一は何時ものように十四、五段の階段を疲れた足取りで上っていった。

 人はその渦中にあるとき何も見えて来ない。状況を客観的に捉える必要があると分かっている。しかし客観的であると誰が評価できるだろう。物自体は見る角度によって全く違った映像に写る。佐知子にとって一方向から見ることは、素直で、純粋で、心優しいことなのかも知れない。そして、佐知子は安らかな家庭を持ち、慎ましく生活して行くことを求めていた。しかし、それは慎一を理解することに繋がらなかった。何れ、慎一のことを必要としなくなるときが来るだろう。

 朝方微睡みながら夢を見ていた。

・・・雨、優しき人の胸に雨が沁み入る。一体誰だろう、佐知子なのか、希実なのか、涼子なのか、礼子なのか、琴美なのか分からない。靄の向こうに霞んで見える貴女は、何を思って俺の方を見つめているのだろう。『愛している・・・』と、言っているのか、それとも『さようなら・・・』と、言っているのか分からない。窓の向こうの、音のない雨、微かにその声が木霊しているように聞こえてくる。しかし、ガラスに共鳴して何を言いたいのか聞き取れない・・・

 

 翌日、慎一は何時も通り出社した。佐知子の態度に別段変化は見られず忙しく一日が終わった。そのまま何事もなく年度末を迎えた。

「河埜さん、休みの予定は?」

 と、佐伯が近くに来て話し掛けてきた。

「明日から郷里に帰ろうと思っている」

 佐知子の顔が一瞬曇ったように思ったが、佐知子は下を向いたままだった。

「そうですか、郷里があるって良いですね」

「佐伯君は?」

「東京にいます。何処に行っても混んでいるし、積み重ねてある本をのんびりと読みます」

「そろそろ終わろうか・・・」

「ええ」

 慎一は佐知子のことが気に懸かっていたが、無視して帰ることにした。アパートに着くと簡単に片付けを済ませ、夜中に東京を後にした。静岡の実家に帰ろうと思って車のエンジンを掛けたが、新潟に向かっていた。

 谷川岳を越えると一面銀世界となり、黒雲が前方の山々を越え、時折突風が吹き付けると激しく雪を運んでいた。凍てつく風を正面から受け、慎一はブルッと身震いした。頭の芯が痺れてくる陶酔感と、人間の感覚を地獄の底に突き落としてしまうような冷たさに、微かな息をしている自分を感じていた。

 翌日、慎一は黒々とした日本海を見ていた。新潟漁港に人の姿はなく雪は降り続いていた。暗い海、怒濤の飛沫、他を寄せ付けない威圧感、観念の領域の全てを飲み込んでしまうような厳冬の海、吸い寄せられるのか、吹き飛ばされるのか、人間の思いなどには関係がないだろう。それは無力であることを、死を前にしても分からない人間どもに教えていた。

・・・黒々とした縦縞の雲の向こうにウラジオストクがある。未だ見たことのない街並みに憧れていたのは何時のことだったのか、シベリア鉄道に乗りモスクワまで一万キロの旅を夢見ていた。極寒のシベリア鉄道は俺に生きる力を与えてくれるだろう。しかし行きたいと思いながら結局行くことはなかった。ツンドラ地帯の大氷原に閉じ込められた俺は、雪解けと共に外側から内側から腐敗して行く。分子から原子に還元され、濁流に流され、広大な海洋に沈んで行く。そして、浮遊するミジンコのように海流に乗って北から南へ、南から北へと流されて行く。悔恨はない。唯、人間に生まれたことが間違っていた。俺の死は、人間として死ぬのではなく自然界の生態系の一部分として死ぬのに過ぎないだろう・・・

 忍び寄る黒雲が顔面を過ぎると、突風と共に雪礫のような固まりが吹き付け慎一は立っていることさえ覚束無かった。全身冷え切ってしまった慎一は旅館に戻って行った。

・・・日本海に面した窓には暗闇以外何も映っていない。恐らく東京も北風が吹き荒れているだろう。佐知子はもう眠っているのかも知れない。笑顔の中に、まだ幼さを残し生え際には和毛が揺れていた。愛する悲しみも愛される苦悩も知ってはいない。生きる辛苦も、生き続けて行く虚無感も知ってはいない。俺は佐知子の暖かい胸の中に埋もれることで良いのかも知れない。しかし、直ぐ破綻を迎えることだろう。俺の出来ることは拒絶すること以外なかった・・・佐知子と同じように何人もの女が側を通り過ぎていった。しかし誰も留まることはなかった。愛することが出来なかったのか、許容出来るほどの度量を持つことが無かったのか、過ぎてしまった過去が懐かしいのではなく悲しいのだと思う。過去を消すことも取り替えることも出来ない。然りとて蘇ることもなければ、もう一度経験することも出来ない。還らぬ思い出としてあっても悲しみだけしか残っていない。そして、何時しか鮮明だった記憶も徐々に薄れ脳の奥底にしまわれて行く。シナプスを辿っても、刺激を与えられても読み出すことが出来なくなるだろう・・・所詮、個々が関係なく存在し、繋がりを断ち切ることに依って、日常の煩わしさから逃れることが出来る。そして、俺は断片だけを糧に生きることが出来るだろう。多くの人間が関係を捨て社会を捨て日常を捨ててきた。しかし、一日、一日と生き延びて行くことで確かなものが見えてくる。仮にそれが無という結論しか出せなかったとしても良い。内面を掻きむしられるような悲しみや苦痛さえ一瞬の出来事でしかない。脳は、人間が生きるとき、知よりも肉体を必ず優先させる。けれども、知を優先させるときのみ心の震撼を覚え、生きようとする試練を与えていく。それを乗り越えることによって、精神が鍛えられて行くのだろう・・・

 一晩中寒風の泣き叫ぶような音に慎一は眠れなかった。冷たい蒲団から起き上がると、額を窓に当て遠く海の彼方を見ようとした。そして、雪に混ざっているシベリアの氷の匂いを嗅ぎ分けたように思った。後一時間も経てば冬の夜が明けてくる時間だった。

 

次回 第四章 一 競馬場



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