在日琉球人の王政復古日記

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孤独死=無縁死=無縁仏~ #上西小百合 「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」=釈迦「犀の角のようにただ独り歩め」

 

<無縁仏>政令市、10年で倍増 貧困拡大背景 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

2017/7/16(日)
全国の政令市で2015年度に亡くなった人の約30人に1人が、引き取り手のない無縁仏として自治体に税金で弔われていたことが、毎日新聞の調査で分かった。全政令市で計約7400柱に上り、10年でほぼ倍増。大阪市では9人に1人が無縁だった。死者の引き取りを拒む家族の増加や葬儀費を工面できない貧困層の拡大が背景にあり、都市部で高齢者の無縁化が進む実態が浮き彫りになった。
(略)

 国立社会保障・人口問題研究所によると、昨年の死者は約130万人で、団塊の世代が75歳以上になる2025年には約152万人に達すると推計され、「多死社会」に突入する。少子高齢化の影響もあり、今後も無縁化が進む可能性がある。

 

ちょっと待て。「無縁仏」ってイケナイ事なのか? 仏教的には「あるべき姿」ではないのか?

 

「無縁」という言葉は、一般的には、

家族や他人と関係(つながり)が無い。孤独な境地。

反対語が「有縁」で、家族や他人と関係(つながり)があること。

  

そしてややこしんだが、仏教的には「無縁」は正反対に近い2つの意味がある。

 

一つは、一般的な意味とほぼ同じで、

如来や菩薩(他者を救済できる仏教世界の超人たち)と因縁(つながり)が無い。つまり如来や菩薩と出会わない、救われない境地。

これの反対語が「有縁」で、如来や菩薩と因縁を持ち、その説教を聞く機会がある、つまり、救われる可能性があること。

 

もう一つ別に、対象を因縁(つながり)で区別せず、ありとあらゆる一切合切全てを救い取るという、(如来や菩薩の)絶対慈悲の精神、という意味もある。

  

「無縁仏」の「無縁」は、仏教的というよりは、一般的な意味、家族や他人と関係(つながり)が無い孤独な境地、ということだろう。

「無縁仏」の「仏」は、初期仏教的な「解脱し涅槃に至った完成者」、という意味ではなく、日本仏教的な「死者」の言い替えである。

よって「無縁仏」とは、菩提を弔い供養してくれる縁者がいない死者のことだ。

 

しかしだ。それって、仏教的にダメなのか?

確かに先祖供養を大切にする「日本の大乗仏教」的にはダメなのかもしれないが、インドの小乗仏教・初期仏教的には、それが正しい死に方ではないのか?

だって、本来の仏教は「出家」しないといけないのである。親兄弟と縁を切るのである。もちろん結婚もしないから妻はいないし、当然子もいない。出家したら血縁はいない。つまり「出家=無縁」ではないか。

 

お釈迦さまだって、親子の縁を切り、出家して、解脱したんだから、「無縁仏」ですがな(笑)。この世に因縁が残ってたら、輪廻してしまい、涅槃成仏しませんがな。

 

確かに、無縁仏というだけでは、天涯孤独というだけで、智恵で悟ったわけではないから、まだ解脱してないかも知れないが、少なくとも解脱の前提条件である無縁には成功しいているのである。

 

逆に、家族が故人を忘れず、供養を欠かさず、菩提を弔ってくれている、大乗仏教的には良き事とされる「有縁仏」は、初期仏教的には、愛情や孝行の因縁、因果を断ち切れず、この世に執着を引きずり、成仏は不可能である。つまり輪廻を巡り、六界に生まれ直すことになる。天界や人界ならいいが、餓鬼畜生地獄では目も当てられない。

 

時間を重ねて家族も故人を忘れてしまい、現世の誰も彼を覚えていない。この世に思い残すことはなく、この世も彼を思い出さない。こうしてやっと、ご近所付き合い・ママ友にも似た、ベタベタした鬱陶しい因縁のサイクルから脱出し、やっと涅槃へ進めるのだ。

 

家族の愛情深く供養と弔いでこの世に縛られた有縁仏より、

誰からも忘れ去られ、因果を絶った無縁仏の方が、最終目的地に近いのだ。

 

さて、何を釈迦オリジナルの教えとみるかは難しい話である。

大乗仏教の浄土信仰者は念仏だというだろうし、法華信者は法華経に全てがあると断言するだろう。

しかし、学問的に考えると、念仏も法華経も、釈迦オリジナルとは言い難い。

おそらくは釈迦本人が説いた可能性が高い、とされるものに「犀の角のようにただ独り歩め」という教えがある。

 

「スッタニパータ 第一 蛇の章 犀の角」

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

(略) 

 

インドの表現はだらだら長ったらしい(笑)。

散文というよりリズムに乗せた韻文である。

韻律に乗せた長文、ということで、なんとなく前世紀末アメリカに生まれた黒人音楽・ラップ、ヒップホップに近い気がする。釈迦も古代インドのラッパーだったのだ。

何はともあれ、この調子で延々と続くので(笑)、途中で端折るが、

 

通常の動物の角は、牛も山羊も鹿も一対(2つ)である、

しかし犀(サイ)は一角だ。

 

「犀の角のようにただ独り歩め」とは、他人と「対」になるな、関係を持つな、ということだ。釈迦の言わんとするところは、家族の縁を切れ、友人も持つな、天涯孤独になれ、ということだ。つまり「無縁」になれということであり、その果てに「成仏」するんだから、「無縁仏」こそ釈迦の正しい教えなのである。

 

これが他の宗教と一番違う、仏教の特徴である。

一神教に、孤立無援はありえない。

キリスト教徒は、いかに孤独になっても、必ず、神がいるからだ。

私と神の一対、それがキリスト教の最小単位になる。神のいない、私一人のキリスト教はない。

 

当たり前だが、ナザレのイエスにも必ず神がいた。最後の最後まで一緒だった。 

 

マルコによる福音書
15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。  

マタイによる福音書
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 

ルカによる福音書
23:46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 

 

常に神と会話するイエスに「犀の角」はあり得ない。 

 

仏教、ということに一応なっている(笑)大乗仏教の浄土信仰も「犀の角」はあり得ない。神はいないが、代わりに、神ソックリの阿弥陀如来がいるからだ。

親鸞などの場合、阿弥陀如来の他に、先達の師匠・法然までいる。 

 

歎異抄

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 

(私には、阿弥陀如来の本願を信じて念仏せよと教える、法然上人の教えの他に頼るべきものは何もない。
ただし、念仏で本当に浄土に行けるのか?、全くの嘘っぱちなのか?、愚かな私には全く判らない。しかし法然上人が大ウソつきで、念仏で地獄に落ちたとしても、私には何の後悔もない。
なぜならば、もし私に念仏以外の高度な修行をやる能力があったら、念仏なんかやめて他の修業をしておけば!という後悔も生まれるかもしれない。
しかし、高度な修行など全くできない無力な私は、念仏を選ばなくても、どうせ地獄の他に行き場はないのだ。) 

 

エス親鸞も、絶対者である神や阿弥陀如来に全てを委ね、頼り切っている。

「犀の角のようにただ独り歩め」の釈迦とは、180度正反対の態度だ。

 

そこで、平成の聖帝・上西小百合さまである。

彼女の思想は、イエスか? 釈迦か?

他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」、もう誤解のしようがない。

釈迦の「犀の角のようにただ独り歩め」と全く同じだ。

 

釈迦は

「親や子に、財産に、自分の人生乗っけてんじゃねえよ!」
「夫や妻に、愛情に、自分の人生乗っけてんじゃねえよ!」
「師や友に、組織に、自分の人生乗っけてんじゃねえよ!」
「輪廻のサイクルに、自分の人生乗っけてんじゃねえよ!」

と仰りたかったのである。

ただ、生まれがクシャトリア、王族だったために、小百合タンのようなケンカ腰で下品で下種な言葉を知らなかっただけなのだ(笑)。 

 

小百合タンには味方がいない。彼女を親しく感じる人もいない。日本国民1億2千万との間に、高い壁、深い溝がある。それは当たり前なのだ。

 

浦和サポーターは、レッズとの縁を斬れ。犀の角のようにただ独り歩め。

私も、他人との縁を切る。犀の角のようにただ独り歩まん。

  

彼女は、他人とあらゆる縁を切って、女人のまんま成仏した奇跡の覚者「無縁仏」上西小百合如来にあらせられるのである。南無。

 

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