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「明治維新150周年、何がめでたい」by半藤一利

2018-01-28 14:18:22 | 参考資料-幕末

半藤一利さんが、明治維新150周年を祝おうとする、あるいは祝わせようとする現在のムードおよび政府+自治体政府に異論を述べていた。

ふと気が付くと、地方自治体の催しの頭に、明治維新150周年記念とかなんとかついてたりするので、こりゃまぁ手回しよくやってるんだなと私も最近気がついた。


半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」
「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す

http://toyokeizai.net/articles/-/205960

いろいろ興味深いことをおっしゃってますが、まず維新という名前について。

  • 「漱石や荷風は、明治維新ではなく『瓦解』と言った。薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握った。その歴史的正当性を主張するため『明治維新』という言葉を使った」
  • 調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。
  • 明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。

 

このあたり、要するに1867年の政変をしかけた側は、薩長土肥という恰好になっていた支配体制から徐々に気にいらない成分を取り除いていくって感じですね。

別の言い方をするのなら、1867年を中心とした倒幕の意味の中には、こういう身分秩序の息苦しい世の中を変えて、わしらの国を作るんじゃ~みたいな、いわば民権派成分が濃厚にあった。明治時代いっぱいは、その成分を取り除いていく過程みたいにも言えるんじゃないですかね。そうであれば、この完成は、1910年の大逆事件でしょうね。

 

その前にその政変そのもののお話。

本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。

そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。

まさにそんな展開。前にも書いたけど、戊辰戦争って東日本征服戦争みたいな趣は濃厚にある。

一般に、白河口から入っていって会津若松城を落とすところだけにハイライトが当たってドラマ化されてるけど、実際には船舶を使って、しっかり海側から塞いで相手(同じ日本人なわけだが)を降伏させようとしていっているわけで、これって本当に誰が考えたの??と、むしろ最近不思議になっているところ。

#東北でよかった

そして、それを請け負った世良修蔵をはじめとする、この時欧州側に派遣されていた長州、薩摩とその金魚のフンの諸藩のだらしなさ、くだらさな、傍若無人ぶりはもっと知られていい。

奥羽側としたら、なんでこんなやつらの言うことをきかんならんのか、まったく見当もつかなかったやろとしみじみ同情する。ついこの間まで、御所に大砲打ち込んでたやつらが、天皇をかついで偉そうにするというそのメンタリティーはまさに異常。成り行きを知る多くの人にとって、はぁ???だったでしょう。

そして、このノリは、後に朝鮮、ロシアシベリア、中国に乗り込んでいっては、俺らのいうことを聞け~、聞かない奴は成敗してくれる~といわんばかりの行動を取っていたその行動の原型だななどとも思うわけですよ。

このへんで書いた話。私にしても最近まであんまり考えたことがなかったが、よく時間軸を取って考えると苦笑するしかない。

しかも、冷静に考えれば、清やロシアはれっきしとした大国の外交官がそれなりのマナーで存在していただろうと推測できるが、日本はつい最近まで下級武士の乱暴者で外交なんてしたこともない人たちがドヤ顔でやってくる。西洋が近代がっつったって、その日本自体がお雇い外国人にいろんなことを教わってる最中。日本人に最初に鉄道模型を見せてくれたのは、ロシアのプチャーチンだよ!

そこから考えると、朝鮮の王室からしたら、たとえどんなに貧乏していたとしても、一体全体どうしてこの人たちに四の五の言われなきゃならないんだろうと、もう、頭が混乱していたんじゃないかと、考えると笑いが出る。

日本ではここを無視して、近代化した日本を朝鮮もシナもまぶしく見上げていましたみたいな話にしてすましてるけど、よく考えると、時間的に後になって、シナが崩れていってからはそうなってきた部分もあったとは思うが、原初においては、そんなわけねーだろーって話じゃまいか。笑えないけど。いやほんと、でもそうでしょ?

ロシア外務次官韓国訪問&露館播遷


武士道とかいう語をやたらに使いたがる傾向を私はよしとしていないんだが、お侍らしいお侍がいたのは、実のところ奥羽側であって、薩長側は時流に乗ったただの強盗と言っても過言ではないと思う。総じていえば、薩長側には矜持というものがない。

というか、よく考えれば、お侍らしいお侍、もののふであることに誇りを持つというのは東国の鎌倉幕府を発信源とするんだから、西にそれがなく、東によほど根付いていたという考えも成り立つのかもしれない。

 

ということで、政府は現在長州の人なのでこれをおめでたいことだとしたいらしいが、そうではないと異論を述べる人は多く存在することが確認できることは結構なことですね。

日本は150年たってようやく革命政権について自由に語れる言論環境が整ったということなんじゃないでしょうか。


 


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2 コメント

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Unknown (梅乃丞)
2018-01-28 19:37:42
何が目出度い維新150年…

私も同感です。
もう「うんざり」というか「ウザい!」です。
(By本州最西端の県民)
本州最西端 (ブログ主)
2018-01-28 21:41:27
本州最西端の県民の梅乃丞さん、気がむいたら、現地の人はどう考えているものなのかおしらせくださいませ。
よく考えると、一般の多くの人は多分気の毒なポジションのような気もしてるんです。みんなが同じく本州最西端万歳主義じゃないだろうに、と。

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