昨日の続きです。
今日は楽々園(槻御殿)造営の時に付属して造営された、
槻(ケヤキ)之御庭と言われた玄宮園紹介です。
玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。隣接する楽々園は
槻御殿と呼ばれ、延宝5年(1677年)、第4代藩主井伊直興により造営が始ま
り、同7年に完成したと伝えられています。
玄宮園の位置は城内の北東部で、内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた、
第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられ
ていましたが、主水が大坂夏の陣で死亡してからは空家となり、1624年頃に
藩主下屋敷が建設されたといわれます。入江側は1940年代に第二郭の間近
まで干拓が進み現在は堀状の溝で囲まれるのみです。往時は庭園北側
の水門から舟で琵琶湖に出れました。
水門外の堀状の溝ではハスが咲いていました。
水門の跡です。ここから御座船に乗り龍潭寺への参詣や
お浜御殿への御成に使われました。下図⑪と⑫の間にあ
ります。
園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、
「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれます。天守を借景
として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、
鳳翔台、八景亭などの建物が配されています。
下図⑥の所です。玄宮園への出入り口です。
観光案内地図です。
槻御殿の古写真です。右側が玄宮園です。
玄宮園から楽々園を見たところです。柵があり向こうに行けません。
現在は玄宮園から楽々園を合わせて槻御殿と呼んでいます。
この反対側の風景は
上図⑦の辺りからの撮影です。
上図⑧の辺りからの撮影です。
カメラを左に回すと
上図⑧の辺りからの撮影です。
さらに左に回すと
上図⑧の辺りからの撮影です。
現地の玄宮園案内古地図です。「玄宮園十勝」が書かれています。
飛梁渓です。
「臨池閣」と上に本丸石垣と天守です。
「臨池閣」と上に本丸石垣と天守です。天守入口の多門櫓も見えます。
石垣左端は着見台と呼ばれました。
上図⑨の辺りからの風景です。
上図⑨の辺りからの風景です。船着き場です。
⑩の辺りからの風景です。
⑩と⑪の間から撮影しました。
⑫から撮影の「臥龍橋」です。
橋の上から撮影しました。
手前が「魚躍沼」で向こう岸が「鶴鳴渚」です。
下図のように「鶴鳴渚」では外堀からサイフォンの原理で、
湧水を引いて小島の岩間から水を落として滝に仕立てて
いました。
これは「薩埵林」方向です。
「臥龍橋」を渡ると中島があり、さらに橋が続きます。
⑬の所です。手前が中島です。
渡ると
「臨池閣」です。中には入れません。
⑭辺りで撮影しました。「鳳翔台」です。
ここから伊吹山が園内にあるように見えたそうです。
この日は伊吹山が見えませんでした。
「鳳翔台」の解説板です。
ここでは
ここでお抹茶がいただけます。
江戸時代の「鳳翔台」と「臨池閣」の古絵図です。
さらに進んで⑮の辺りは
この辺りは「春風埒(しゅんぷうれつ)」とあります。
さらに進むと
水田があります。
発掘で水田遺構が見つかり、それを復元しています。
「神田」と書かれた絵図もあり、隠居した藩主がここで
御田植神事を行いました。百姓の気持ちが分かる良い
行事でした。
現地説明板です。
今日はここまでです。明日は再建御殿の方に行きます。
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