田丸城(続日本100名城 )の紹介1 歴史・大手門付近 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

2017年(平成29年)4月、続日本100名城(154番目)に

選定された田丸城の紹介です。2017年8月15日夏のバス

ツアーに参加して見学しました。松坂城より古いのですが、

田丸城内に中学校があるために、日本100名城に入らな

かったそうです。

 

南北朝時代に南朝方の拠点として1336年に、北畠親房と

北畠顕信の、父子によって築城された平山城です。当時は

伊勢神宮や熊野水軍の支援もありました。

京から伊勢に行く伊勢参宮本街道と、南からの紀州街道が

合流する戦略的要衝に田丸城があります。両街道がここで

合流して、東に約7km行くと伊勢になります。またこの辺り

は古来より伊勢神宮の経済を支えた穀倉地帯でした。

 

天守址から見た西方向の穀倉地帯です。石垣は天守台です。

 

 この地の海抜約50mある玉丸山に砦を構えています。

神宮の森を眼下に望む玉丸山は、東国への海路の拠点

である、。宮川河口付近の三角州にある、大湊港を支配

する交通の要衝でした。

 

本丸から東の伊勢神宮方向を見たところです。手前は三の丸に

ある町立玉城中学の校舎です。東方向に城下町がありました。

 

田丸城と伊勢神宮(グーグルより引用)

 

 1337年足利尊氏の家臣である、畠山高国・高師秋・仁木

義長を伊勢守護として、この地の南朝軍を攻撃させます。

田丸城は次々来る新手軍に疲弊していき、1342年に落城

します。北畠氏は三杉の多気に移り抵抗しました。何度も

北朝の伊勢神宮使者を妨害しています。

 

1392年の南北朝合一で、合一条件を反故にした北朝軍

に、国司北畠満雅は怒り挙兵します。1414年に足利氏と

和睦して、北畠氏は伊勢支配を任されます。

室町時代に伊勢国司となった北畠氏の手によって田丸城

は再建されます。北畠家の庶流で、第5代北畠政郷四男

顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗りました。

 

戦国時代に5代目の田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に

伴い、北畠具教の養嗣子となった信長次男の織田信雄に

田丸城を明け渡して信雄に仕えます。田丸城は信雄の居

城として1575年(天正3年)に改築されて、田丸山に濠を

めぐらせて、三層の天守(8間四方・高さ9間)を備えました。

 

石垣のある天守址です。

 

近世城郭へと生まれ変わり、織田氏の伊勢支配中心拠点

となります。天正4年(1576年)11月には、信長の意向

を受けた信雄の命で田丸直昌は、長野具藤や北畠親成

ら同族である北畠一門の主だった者を、田丸城に招き寄

せ殺害しました。北畠氏を滅ぼした北畠信雄は織田姓に

もどります。天正8年(1580年)に信雄が外出中金庫番

の者がお金を横領していたのがばれたので、天守などに

火をつけたそうです。このために火災で天守を焼失します。

それで織田信雄は田丸城から松ヶ島城に移りました。

また、約5年間この城に居た信雄は、伊賀に攻め入って

いますが失敗しています。父信長の協力でやっと伊賀を

平定出来ました。

 天正10年(1582年)本能寺の変があります。天正12

年(1584年)、小牧・長久手の戦いののち、松ヶ島城主

となった蒲生氏郷の支配下に入り、1584年に田丸氏が

田丸城主に返り咲きます。天正18年(1590年)に秀吉

の奥州仕置においては、藤堂高虎が会津行を断り蒲生

氏郷を推薦したので、蒲生氏郷が陸奥国会津に移封され

ます。妹婿となっていた田丸直昌も与力大名として陸奥に

移動しました。江戸時代初頭には稲葉道通が入り田丸藩

となります。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるも、

1619年(元和5年)に徳川御三家の一つ紀州徳川家の

治める紀州藩の所領となりました。
遠江久野城城主であった付家老久野宗成は駿府藩主で

あった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州

徳川家の成立)の際にもそのまま付随となり、紀州へ移

ってきます。頼宣はこの久野宗成に8千5百石を与えて、

田丸城城主として田丸領6万石を領させました。1795年

に1万石に加増されます。久野氏は、家老として和歌山

城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として

置き、政務を執らせました。伊勢神宮の神馬が欠ける度

に、1654年以来15回も神馬を奉納しています。幕末に

は火薬や大砲も製造しています。1850年鎮守稲荷社を

造営します。久野氏はその後八代250年続き、明治維新

に至ります。田丸城は明治2年に紀州藩に返上させられ

て、明治4年に城内の建物は入札により払い下げられま

した。明治26年には参宮鉄道が開通したので、線路とな

った城山南部が欠けています。       

 

現地にあの縄張図です。久野氏時代の田丸城です。

1万石しかないために、城の補修があまり出来ません

でした。

 

①の大手門から

①から大手門跡撮影しました。手前の橋は外堀に架かる橋です。

上の江戸中期の地図では大手門枡形になっています。しかし、

現在は大型車両を通すために、正面奥の部分が撤去されていま

すので、内部が見渡せます。

 

①から右側の外堀を撮影しました。石垣は大手門の

両側近傍にしかありません。

 

①から左側の外堀を見たところです。堀の右側に見える

ビルは、上図③にある玉城町役場です。

 

大手門の中に入ると

 

手前は町役場の駐車場です。その向こうには

内堀と石垣が見えます。右側にはニノ門枡形

があります。

 

代官屋敷には久野氏の城代が住んでいました。(右が北です)

 

ピンクの線に沿って登城しました。(グーグルより引用)

 

大手門を入った右側には、村山龍平記念館があります。

村山龍平記念館です。久野氏の代官屋敷跡にあります。右端がガイドさんです。

 

村山龍平氏は嘉永3年(1850年)に伊勢国田丸(現・玉城町田丸)の

紀州藩田丸城代に仕える家系に生まれます。久野氏は1万石なので、

150人ほどの家臣がいたと思います。のちに大阪へ移住して1879

年(明治12年)に朝日新聞を創刊し、後に朝日新聞社の社主となりま

す。村山氏は財界人・言論人として社会を先導し続けたのみならず、

美術品収集でも知られた文化人でした。また郷土愛あふれた人物で

もあり、故郷に多くの寄付を行い、田丸城の町有化(昭和3年)などの

原資を提供しました。玉城町ではこうした村山氏の功績を讃える施設

の建設が、没後50周年を迎えるにあたって計画され、村山の子孫か

らの多額の寄付を受けて、1983年(昭和58年)に開館しました。現

在は郷土資料館・図書館・町教育委員会も併設されています。入場は

無料です。

 

大手門を入った左側には玉城町役場があります。

玉城町役場です。

                             (現地資料・パンフレット・ウイッキペディアより引用)

 

長くなるので今日はここまでです。明日に続きます。

 

読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、相互登録します。相互アメンバーも募集中です。
どちらもチェックを外して「読者とわかるように」に設定して登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングを出来るだけ押しに行きます。

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 
お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                              にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                               ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  お願いします。