伊賀上野城の紹介3 小天守と大天守2階まで | みどりの木のブログ

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今日は超大型台風21号が接近していますが、最近はその影響で

雨ばかりの日々ですね。早く天気が良くなって欲しいです。いつも

ブログを見に来ていただいてありがとうございます。これからも毎日

UP(午後8時半前後)で頑張ります。

 

昨日の続きです。

今日は本丸の小天守と大天守2階までです。

 

高石垣から天守の方に移動しました。

 

 

この階段を上り、手前の小天守から見ます。

階段の上には、左側に門があります。

この門内の左側に小天守があります。

 

小天守入口横にある解説板です。

高虎の五層の天守は完成直前に

台風で倒壊しました。

 

 

筒井定次は天正13年(1585年)に、大和から伊賀上野に領地替えされ、

実質は40万石から20万石への減封でした。このため、筒井氏は家臣の

多くを追放せざるをえませんでした。この時期には重臣の島左近も家中

の争いで筒井家を離れています。
定次はこの秀吉の仕打ちを恨んだのか、1600年の関ヶ原の戦いでは、

東軍に与して武功を挙げたことから所領を安堵され、伊賀上野藩を立藩

します。しかし1608年に徳川家により、改易され伊賀上野藩20万石は

廃藩となります。筒井定次自身の身柄は鳥居忠政預かりとされました。

改易の理由は、定次が酒色に溺れていたり、キリシタンであったことなど

が原因でした。
慶長20年(1615年)に、定次は大坂冬の陣で城方に内通したという責

めによって、徳川家より息子の筒井順定と共に自害を命じられます。

その後、従弟の筒井定慶が大和郡山1万石を与えられますが、大坂夏

の陣で定慶が戦死したため、大名としての筒井氏は滅亡し、1千石旗本

として幕末を迎えました。

 

小天守の中にはいります。

小天守内にある忍び井戸です。

 

深さ50尺(15m)の忍び井戸です。かなり深いので底が見えません。

 

「大坂城の攻略に失敗したときは、上野城に籠城せよ」と

命を受けた藤堂高虎は、当時城郭構築随一といわれた、

西島八兵衛尉之友を奉行として縄張をはじめ、3年の籠城

に耐えるために、兵糧と水と塩を確保することにします。

水は小天守に深井戸(50尺)を堀りました。井戸穴には横

穴を3ヵ所にもうけて抜け道を作りました。抜け穴の長さは

総延長で4kmにもなりました。兵糧の運び入れや、落城し

た時の抜け道、外部との連絡用に設計されました。また、

小天守と抜け穴の出口には、忍者を常駐させて守らせまし

た。藩士と言えども立入禁止でした。

 

江戸時代の伊賀上野城です。

 

小天守は管理棟でもあり2階は公開していません。

続いて大天守に行きます。内部撮影出来ましたので

助かります。その一部を紹介します。

 

さらに階段を上がります。

天守台自体が立派な造りです。

階段を上がると

大天守の周りには塀と通路があります。

高虎の造った大天守は5層で一回り大き

かったので、現在の3層天守では天守台

の周りにゆとりがあります。

 

大天守の入口を入ると

1階に藤堂高虎像があります。

この右には高虎のゆるきゃらもありました。

 

高虎ゆるきゃらのたいがー君です。

 

家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら、

譜代大名格(別格譜代)としました。慶長19年(1614年)から

の大坂冬の陣では徳川方として参戦します。翌年の大坂夏の

陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、

八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦いました。この戦

いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂

高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出しています。その功

績により、伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内

で5万石を加増され計27万石になり、同年閏6月には従四位

下に昇任します。しかし、この戦いで独断行動をした、家臣の

渡辺了ともめて決別しています。家康死去の際には枕元に侍

ることを許され、死後も家康に仕えたいと自らの宗派を日蓮宗

から天台宗に変えます。家康没後は2代将軍徳川秀忠と、3

代将軍家光に仕えました。

元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増

され、弟正高が下総国で拝領していた3千石を津藩領に編入

し、津藩の石高は計32万3千石となります。
田丸城の5万石は元和5年(1619年)に、和歌山城に徳川

頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地と

して大和国と山城国に5万石が与えられました。

元和9年(1623年)ころから眼病を患って、寛永7年(1630

年)に失明します。同年10月5日75歳の時に、江戸の藤堂

藩邸で死去しました。高虎の右手の薬指と小指はちぎれて、

左手の中指も短く爪は無かったそうです。左足の親指も爪

が無くて、さらに満身創痍の身体でした。主君を変えるたび

に、命がけでその主君につくした証と言えます。

 

その他に、1階には藤堂高虎の伝記絵巻が襖に描かれています。

左端は高虎が小者の時に、空腹に耐えられずに饅頭を食い逃げ

しようとした場面です。店主に見つかって怒られますが諭されます。

後日出世してから恩返しをしています。

 

高虎の旗印はこのために、3個の丸饅頭をデザインしたものです。

高虎の旗印です。3つの丸饅頭をイメージしています。

 

藤堂高虎の肖像画です。

 

高虎が秀吉から賜った黒漆塗唐冠型兜です。(本物です)

高虎は大坂夏の陣で着用しています。高虎は190cmも

ある大男だと言うので、着用と言っても頭にのせるだけだ

ったか、複製を使用したのでしょう。

 

大摺り上げとは、刀身が長すぎるために茎尻より切り縮めて、

刀身全体を短くすることで、当初の銘も消えます。

 

次に、大天守2階に行きます。

踊場のある階段で2階に行けます。

 

2階には歴代藩主肖像画や日本の城の天守閣写真が

展示されています。

 

2階です。

 

最上階の3階への階段があります。

 

今日はここまでです。明日は最上階3階からです。

 

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