鳥取城の紹介1 歴史 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

今日から鳥取城の紹介をします。

初めに歴史からです。

2017年12月7日に訪問しました。

 

堀と石垣があり、背後の山が久松山です。左の建物は鳥取県立博物館です。

 

現地にある幕末の絵図です。三の丸に藩主御殿がありました。

 

現地にある航空写真です。三の丸跡は現在鳥取県立鳥取西高校(旧制鳥取中学)です。

 

グーグルより引用の地図です。

 

上航空写真の①の所です。

 

鳥取城の歴史
鳥取城の成立には諸説あります。中世になり好立地な久松山に地元豪族の砦が
あったようです。
戦国時代山名誠通の因幡山名氏と対立する、但馬山名氏(山名祐豊)の付城とし
て城になりました。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からです。
武田高信は山名誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏

の家臣でしたが、しだいに力をつけ1560年代には鳥取城を拠点とします。
守護家に対して優勢になった武田高信は、因幡守護居城の天神山城を攻撃して、

因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護として山名豊弘を擁立

して因幡を支配します。しかし、武田高信はその後も、山名豊数の弟で主筋である

山名豊国としばしば対立したので、安芸の毛利氏と同盟します。。
1573年(天正元年)に、武田高信を討つために、山中幸盛ら尼子残党と結んだ

、山名豊国の攻撃を受け、劣勢の武田高信は和議を結び城を明け渡します。その

後、山名豊国の手によって武田高信は殺されます。
山名豊国は1573年因幡山名氏本拠を、布施の天神山城から鳥取城に移します。

 

天神山城跡が左端中央にあります。(現地道路地図)

 

この年に鳥取城が初めて因幡の守護所になりました。しかし、同年に吉川元春に

攻められ山名豊国は降伏して、市場城主の毛利豊元が城主となります。しかし、

1574年に、再度尼子氏残党に攻められて降伏します。
1575年毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子

残党が鳥取城を退き山名豊国が城主になります。


安土桃山時代
1580年(天正8年)に織田の家臣羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城

戦の末、山名豊国は和議により信長に降伏して臣従します。ところが、同年毛利氏

の攻撃で山名豊国は再度の降伏、鳥取城は毛利家臣牛尾春重が城主になります。

牛尾春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い、のちに何人かの城主の入

れ替えの後、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家を城主にしま

す。

同年4月に名前のみの因幡守護山名豊国は、織田氏へ密使を送りますが発覚して、

山名豊国は秀吉の下へ逃亡します。残った山名氏旧臣は毛利氏へ臣従します。
それで1581年に秀吉は2度目の鳥取城攻撃をします。
『陰徳太平記』によると、城攻めの前に秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み、

米を高値で買い占めさせます。また、秀吉は海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止し

ます。一方1400名の兵が籠る鳥取城は、城主吉川経家が付近の農民ら2000

名以上を城に招き入れます。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、

この作戦により瞬く間に兵糧は尽きます。何週間か経つと城内の家畜、植物など

は食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れました。

『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引

き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記さ

れています。城主の経家はこの凄惨たる状況に、将兵助命と引き換えに自決開城

します。この戦いは鳥取城の「渇え殺し」として有名です。

付けたしですが、毛利元就の場合は、尼子氏に攻撃されたときに、吉田城に周辺

の農民などを招きいれて、防衛に成功しています。この場合は兵糧を確保してい

て、大内氏の支援もありました。

 

1581年に秀吉は2度目の鳥取城攻撃をします。鳥取城の「渇え殺し」として有名です。(現地パンフレットより引用)

この時代は石垣などはない土の城でした。大規模な包囲網なので、毛利家の援軍が来た時には、信長自ら出馬し

てくる予定だったといわれます。それは、高松城水攻めでもそんな予定でした。

 

鳥取城本丸跡から見た、最大の激戦地サイノ山人ノ附城方向です。

宮部氏の活躍により附城は落城しました。そのため本丸への補給が

断たれました。

 

鳥取城本丸跡から見た、堀と鳥取県庁方向です。

 

1582年秀吉の家臣宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の

拠点とします。しかし、この年に本能寺の変があり、織田信長は亡くなります。

宮部継潤は豊臣政権に代わった1585年の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡

・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となります。その後も宮部

継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信

 増下長盛 石田三成)、秀吉の重臣として活躍し、隠居後は御伽衆として秀吉の

そばに仕えます。

関ヶ原の戦い
所領鳥取城は宮部継潤の子の宮部長房が受け継いでいました。1600年関ヶ原

の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の

伊吹三左右衛門や一族の者が関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに攻め

られ開城します。

江戸時代
関ヶ原の戦いで近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が

6万石で入り城主となります。池田氏によって近世城郭に改修されます。
1617年には、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5千石の大封で入府、鳥取城も

石高に相応しい規模に拡張されました。光政によって城下町の整備も行われたと

いいます。
その後ふたたび、備前岡山藩28万石に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領

の交換が行われ、池田光仲が入封します。この時山陰より山陽の地が良いとして、

石高が減ることを悔やまなかったといいます。池田光仲から12代続いて明治維新

を迎えました。

江戸時代藩の御殿があった三の丸です。

 

現在の三の丸は江戸時代には二の丸と呼ばれていました。

 

上の石垣が二の丸跡石垣です。左端に天守代わりだった御三階櫓跡石垣が見えます。

 

 

明治初期の古写真です。


1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり

第4軍管に属します。しかし、1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、

陸軍省によってすべての建造物は払い下げられました。1877年(明治10年)~

1879年(明治12年)にかけて中仕切門とを残して破却されました。

天守代わりとなっていた二の丸御三階櫓も取り壊されました。現在は天守台、石垣

が残っています。2006年日本100名城に選定されました。

 


中仕切門です。

 


扇御殿化粧の間です。

 2005年には史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画が始まります。これは

鳥取城を2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ復元

する計画です。これによれば、中之御門大手門登城ルートや御三階櫓等を復元す

る計画があります。

 

今日は此処までです。続きは明日更新します。

 

読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、相互登録します。相互アメンバーも募集中です。
どちらもチェックを外して「読者とわかるように」に設定して登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングを出来るだけ押しに行きます。

 

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 
お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                              にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                               ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  お願いします。