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代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

追悼 野中広務さん

2018年01月30日 | 政治経済(日本)
 去る1月26日に野中広務さんが逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 細川政権が出来て自民党が野に下ったとき、野中広務さんや亀井静香さんの「野党力」がなければ、社会党と連立を組んでまで政権を奪還するというウルトラCは決して出来なかったでしょう。京都府議会議員時代、共産党の蜷川府政を倒さんとして野党議員として活動してきた野中さんの経験が生きたのだと思います。

 野中さんは間違いなく自民党の救世主でしたが、彼が救った自民党は現在、彼が護ろうと思った本来の保守政党としての自由民主党とは全く異なる、従米右翼政権に成り果ててしまいました。

 晩年の野中さんは、かつての仇敵であったはずの共産党の機関紙の「しんぶん赤旗」にまで登場し、護憲と平和を訴えておりました。(自民党を救うという)自分のやったことは果たして正しかったのかと、死んでも死にきれないという思い故だったのではないかと拝察いたします。
 
 以下、追悼の意味もこめて、2008年9月に私がこのブログに書いた記事を再掲させていただきます。野中さんが、麻生太郎氏が首相になるのを批判していた頃のエピソードです。


****以下、本ブログの2008年9月の記事再掲*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/f686d410ff84b9d21458dc467f240942


 政界を引退された野中広務さんが、『サンデー毎日』(9月14日号、26‐27頁)でインタビューに答えて「身を挺して”麻生首相”を阻止する」と述べておられました。ここは野中さんに連帯して、私も「麻生阻止キャンペーン」を行いたいと思います。
 野中さんは、以下のように述べていました。


「華麗な家庭に育った出自だと思い上がっている麻生の姿勢が、時に差別発言として、ふと言葉に出るんです。そんな人間に、日本の政治を任せるわけにはいきません」


 この記事では、野中さんが麻生から受けた「差別発言」の具体的内容については触れられていませんでした。詳しいことは、魚住昭著『野中広務: 差別と権力』(講談社)に書かれています。このブログの読者の皆様にも、ぜひ読んでいただきたく存じます。 
   
 2001年に森内閣が退陣表明した後、後継首相として野中さんの名が取りざたされたことがありました。私は、もともと自民党の中では野中広務と亀井静香の二人がもっとも好きな政治家でしたので、亀井首相か野中首相を望んでいました。
 しかし野中さんは「200%ない」と断言して、絶対に総裁選に出馬しようとはしなかった。野中さんが総裁の座を断ったのは、まさに自民党に麻生太郎のようなせいぜい家柄を誇示することしかできない、政策的には全く無能なボンクラ2世、3世議員が多すぎるからです。

 あのとき麻生は、河野グループの会合で次のように言い放ったそうです。

「あんな出身者を日本の総理にはできないわなあ」
と。
(魚住昭、前掲書、385頁)
 
 「あんな出身者」とは野中さんのことです。

 野中さんは政界引退を表明した後、最後に出席した自民党の総務会で、麻生太郎を名指しして、「君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」と述べたそうです。(魚住昭、前掲書、392頁)

 麻生のような人間に足を引っ張られることがなければ、野中さんは首相のポストも受諾できたのではないか、そう考えると本当に悔しい。
 麻生太郎のような祖父の7光のボンボン議員は、親の威光も地盤も何もない底辺から実力で這い上がってきた野中広務のような政治家、それであるが故に社会的弱者に温かいまなざしを注ぐことができた本当の政治家、に比較できる能力など何もないから、せいぜい家柄を誇示して、彼らを貶めることしかできない。そういう政治家があまりにも多いから、私は自民党という政党を支持できないんです。

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