松右衛門、エトロフ島へ
<工楽松右衛門の足跡>
下の年表をご覧になりながら、今回の文章をお読み願いたい。
・寛政2年(1790) エトロフ島・紗那で埠頭建設はじまる
・寛政3年(1791) この年の夏、エトロフ島・紗那港の埠頭工事竣工
・寛政11年(1799)
嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く(三筋の潮を発見)
・享和2年(1802) 幕府より「工楽」の姓をたまわる
・文化元年(1804) 箱館にドックを築造。
工楽松右衛門のエトロフへの航路発見
ここで話を急停車させたい。
「工楽松右衛門物語」は、若干文章を変えているが、もっぱら小説『菜の花の沖』のつまみ食いをして、嘉兵衛・松右衛門を紹介している。
松右衛門のエトロフでの
築港は寛政二年(1790)から
上の「松右衛門の年表」をご覧願いたい。
今、「松右衛門物語」で取り上げている内容は、寛政10年頃の話である。
この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓を許されている。
「松右衛門物語」では、最初から工楽松右衛門を名乗らせているが、松右衛門が「工楽」を名乗るのは、これ以後である。
松右衛門、エトロフヘ
その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなった。誰の目にも危険なものとして映るようになった。
寛政二年(1790)二月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画した。
「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下った。
兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙した。
この時、松右衛門は既に50才に近かったが、北風の要請に応じた。
この時のようすは「松衛右門物語(2)」で、若干紹介しているので、ご覧願いたい。