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敗戦日本の内側 - 4 ( 三国同盟を結んだ近衛公の弁明 )

2018-02-26 17:54:46 | 徒然の記

 歴史から見て、日英同盟は日本の国益に叶うものでしたが、日独伊三国同盟は、日本の命運を狂わせたものとして語られています。

 多くの国民も良い印象を持たず、ましてGHQの占領以後の日本では、間違った政策として否定されています。富田氏が、三国同盟を結んだ公の手記を全文公開しています。紹介する前に、氏の説明を転記します。

 「近衛公は三国同盟につき、陛下に対し、また国民一般に対し、深くその責任を感じていた。」「ドイツ崩壊後公は自ら筆をとり、」「 『三国同盟について 』なる一文を草した。」

 「まさに公が、心血を注いだ一文である。」「もとより当事者として、弁解と思われる節無しともしないが、」「歴史的文献として、公の真意を知る文献として、全文を掲げることとする。」

 全文はブログに収まりませんので、割愛します。北朝鮮の情勢をめぐる、現在の米、中、韓、ロの動きを見ていますと、国際社会が一筋縄でいかないものであることが、よく分かり、三国同盟が昔話と割り切れなくなってきます。 

 「独伊との間に、軍事同盟を締結すべしとの議は、」「昭和13年の夏、大島駐独武官を通じ、ドイツ側より提案されたものである。」「当時すでに存在せる、日独伊防共協定の延長としてだった。」「このときの同盟が仮想敵としていたのは、ソ連であった。」

 「防共協定を同盟にする議は、近衛内閣から平沼内閣へ引き継がれた。」「平沼内閣では、五相会議を開くこと七十数回に及びたるも、まとまらず。」「しかるに昭和15年8月、ドイツは日本に何の相談もなく、突如、防共の対象としていたソ連と、不可侵条約を結んだ。」

 「これがため平沼内閣は、複雑怪奇なる国際情勢云う々の言を残して退陣し、」「かくして、ソ連を仮想敵とする三国同盟の話は立ち消えとなったのである。」

 「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、すこぶる危機に瀕するや、」「再び三国同盟の議が、猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」

 「前年の同盟はソ連を対象としたるに対し、今度は、英米を対象とする点において、根本的に性質が異なるのである。」

 「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、」「反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、陸軍を中心として一部国民の間にも、まさに沸騰点に達したる時であった。」

 同盟締結の交渉は、松岡外相とドイツ外相特使だったスタマー公使が、東京で事前の打ち合わせをしています。14項目に及ぶ会談内容は、詳細に記録されていますが、一番大きな目的は、次の2点でした。

  1. アメリカの参戦を防止し、戦禍の拡大を防ぐこと

  ドイツは日本に対し軍事的援助を求めないが、あらゆる方法で、日本がアメリカの参戦をけん制し、防止してくれることを望む。

  2. 対ソ親善関係の約束

  ドイツは日ソ親善の仲介をし、これにより英米に対する日本の地歩が強固になれば、支那事変の処理が出来やすくなる。

  しかし三国同盟は、呆気なく空文となってしまいます。先に約束を破ったのはドイツで、翌昭和16年の6月にソ連に奇襲攻撃をかけ、殲滅作戦に突入します。

 これではもう、日本のためソ連との仲介どころでなく、ヒトラーの大嘘が判明します。次に約束を反故にしたのは、日本でした。「アメリカの参戦を牽制する」と、ドイツに約しながら、同年の12月に真珠湾攻撃に踏み切っています。米国が参戦した後に戦いがどうなったか・・。それはもう誰もが知る、日本の敗戦です。

 「余は今もって三国同盟の締結は、当時の国際情勢下においては、止むおえない妥当の政策であったと、考えている。」

 「すなわちドイツとソ連は親善関係にあり、欧州のほとんど全部が、ドイツの掌握に帰し、」「英国は窮地にあり、米国はまだ参戦せず、」「かかる情勢下においてドイツと結び、ドイツを介してソ連と結び、」「我が国の地歩を強固ならしむることは、支那事変処理に有効なるのみならず、」「これにより、対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。」

 公は、ドイツ敗戦後の事情を見て、後づけで三国同盟を批判する国内親米派に反論します。我が国の外交は感情論が多く、冷静さに欠けた意見が多いと批判し、ドイツ敗北後こそが、日米接近の好機と捉え公が政策を転換しました。

 「しかるに陸軍は、此の期に及んでなお、ドイツとの同盟に執着し、」「余の心血を注ぎたる日米交渉に対し、種々の横槍的注文を発し、」「ついに太平洋の破局をもたらしたのである。」

 「これまた、冷静なる検討の結果に非ずして、主として親独的感情から発したるものと思う。」

 陸軍に対する公の怒りには激しいものがあり、この部分を富田氏は、「当事者として、弁解と思われる節なしともしないが、」と評したと推察します。私もまた同じ印象を、公の手記から得ました。根拠は、去年の夏に読んだ、岡義武氏の著書『近衛文麿』です。

  岡氏は、大正7年に公が27才の時、雑誌『日本及び日本人』に寄稿した文章を紹介してていました。第一次世界大戦で敗北した、ドイツに関する意見です。

 「われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、」「ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」「しかし英米人が、ただちにドイツを正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。」

 「平和を撹乱したドイツ人が、人道の敵であるということは、」「戦前のヨーロッパの状態が、正義人道に合致していたという前提においてのみ、言いうることであるが、果たしてそうであろうか。」

 「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と、未成の強国との争いであった。」「現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。」「戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、決してそうとは言えない。」

 青年時代の意見ですが、これを読み、初めて公の実像に触れた思いがしました。青い頃の文章とは言え、よくも大胆な意見を発表したと驚きました。

 「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、」「その利益を独占していたため、」「ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、」「膨張発展すべき余地もない有様であった。」

 「このような状態は、人類機会均等の原則に反し、各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」「ドイツがこのような状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」

  ヨーロッパに先進の強国と、ドイツのような後進の強国があったのは事実です。

 岡氏は大東亜戦争の筆頭責任者を、東条元首相と松岡元外相に絞っていましたが、私は違う意見でした。日中戦争不拡大と言いながら、結局拡大し泥沼化させた遠因は、公が青年時代から持っていた思想にあったのでないかと、そういう気がしました。

 反対したけれど、陸軍の横暴に抗しきれなかったと、本人が言い、岡氏も認めていますが、事実は違うのでないかと、かすかな疑問を抱いています。

  公の青年時代の寄稿文を思い返すと、「当事者として、弁解と思われる節なしともしないが、」という、富田氏の評が私の疑問の裏づけとなります。
 
 晩年の公は、青年時代の寄稿文を忘れていたのかもしれません。人間は、自分ら都合の悪いことは、往々にして忘れます。まして公は、激動の時代の政治家です。平和な時代なのに現在の自民党の議員諸氏は、公約した「憲法改正」を忘れます。どうして、公だけを責められましょう。
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