ねこ庭の独り言

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敗戦日本の内側 - 6 ( 昭和天皇のお言葉 )

2018-02-28 15:40:00 | 徒然の記

 松岡外相の続きです。氏の本から、そのまま引用いたします。

 「昭和15年の組閣当時は、一にも総理、二にも近衛公、近衛公を立て、なんでも総理に相談し、あくまでも総理を援けるという、松岡氏であった。」

 「ところが独伊ソ訪問から帰った氏は、もはや以前の松岡氏ではなかった。」「彼は、日本のヒットラーになったのである。」「近衛なにするものぞ。陸軍がなんだ。」「そんなことでは、今日の外交はやっておれない。」「松岡一人ある限り、日本国民よ安心せよ。」「陛下も、ご安堵願いたい。私に、一切任せておけばいいんだ、という態度であった。」

 4月22日に帰国して以来、松岡外相は米国への回答を故意に遅らせ続け、5月8日に陛下に拝謁しました。そして次のような意見を述べています。

  1. 米国が参戦した場合、日本は独伊側に立ち、シンガポールを打たねばならない。

  2. 独ソの衝突があった場合、米国との中立条約を破棄し、ドイツ側に立ち支援する。

  3. いずれにせよ、米国に専念するあまり、独伊に対し、信義にもとることがあってはならない。

 この後で近衛公は、木戸内大臣から次のように伝えられたということです。

 「松岡は陛下の御信任を失った。」「8日の松岡拝謁後、陛下は、外相をとりかえてはどうかと、仰せられた。」

 ドイツ駐在の大島浩一大使は、次々と外務省に電報を寄せ、ドイツ首脳部が日米交渉に対し非常な反感と疑惑を抱いていることを、報告してきました。同時に彼は激越な調子で、日米交渉に対する自分の反対意見を述べました。

 「私も近衛総理と一緒に、大島大使の、度重なる日米交渉への反対意見を、読んだことであるが、」「その文章は、中学生が書くような、興奮性文字で連ねられており、内容は、日本大使でなく、ドイツ大使の主張でないかと、思わされるようなものもあった。」

  松岡外相は、大島大使と一緒になってドイツへ傾き、彼を通じて政府の内部情報をドイツ側に流していたと言います。陛下もそうした事情を知られた上で、外相交代を口にされたのかも知れません。松岡外相が意固地になり孤立していった原因の一つを、氏が説明しています。

 海軍が、アメリカ駐在のイギリス大使ハリファックスの、本国へ出した電報を傍受したら、次の内容だったそうです。

 「野村がハルに対し、日本では陛下をはじめ、政府、陸海軍の首脳、ことごとく日米交渉の成立を希望しているのに、ただ一人、外相だけが反対している。」

 戦前の日本は、米国駐在のイギリス大使の電報まで傍受していたのかと驚きましたが、氏には普通のことなのでしょう。松岡外相のことしか述べていません。

 「これを知ったため、松岡の憤慨は極点に達することとなった。」

 おそらくこれが、独立国の普通の情報活動なのだと思います。敗戦後の日本は、こうした体制を失い、他国になされるがままのスパイ天国となっています。

 昭和16年6月22日、世界は独ソ戦争の勃発に驚かされます。氏の説明の肝心の部分だけを紹介します。

 「松岡外相は、5時半、宮中に参内。」「独ソ開戦につき奏上したが、その際、日本はドイツと協力してソ連を打つべきこと、」「南方は一時手控えなくてはならぬが、早晩、戦わねばならぬこと、」「結局日本は、ソ、米、英を、同時に敵として戦うことになる旨を、勝手に申し上げているのである。」

 「陛下は、大いに驚かれ、即刻総理の許へ行って相談せよと、仰せになり、」「同時に木戸内大臣を通じて、松岡奏上の内容を伝えさせられた。」

 ドイツが日本との約束を破りソ連と戦争を始めたため、三国同盟は基盤を失ってしまいました。ドイツの仲介でソ連に接近して、米英を牽制し、シナとの戦争を処理する計画が台無しになりました。

 「しかし松岡氏は問題にせず、軍部大臣も、ドイツの破竹の進撃に目が眩み、」「独ソ戦は、ドイツの圧倒的勝利で3、4ヶ月で終了すると、思い込んでいる始末である。」

 「岡本少将のごときは、宮中での連絡会の席上、」「ドイツは、遅くとも8月下旬までにモスクワを占領するだろう、との観測を述べたくらいで、」「誰も同盟の破棄など、真剣に考える空気はなかった。」

 この間の事情を説明するものとして、氏が近衛公の手記を紹介しています。

 「事ここに至れば、ドイツとの同盟に拘泥することは、わが国にとりて、危険なる政策である。」「危険と感じたる以上は、すみやかに方向転換を図らねばならぬ。」「ここにおいて、日米接近の必要が生じたのである。」

 氏の説明によりますと、当時は東条陸相も、及川海相も、同様の気持ちであったと言います。公がルーズベルト大統領と、直接会談するという申し出は消えた訳でなく、まだ外交ルートとして生きていました。ところがここでまた、問題が生じます。

 「ルーズベルト大統領は、7月4日付で、近衛総理に当てたメッセージを、直接送って来たのである。」「松岡外相宛でなく、直接総理宛であったことは、いかにアメリカが松岡忌避であったか、分かると同時に、」「このことが感情家の松岡をして、益々反米感を懐かせ、日米交渉の妨害となったことは、その後、明らかな事実となって示された。」

 米国で交渉していたのは野口大使で、日本ではグルー大使でした。松岡外相は、益々非協力的となり、問題は交渉打ち切りの時期だけであると主張するようになります。交渉をまとめようとしていた野村大使は、ハル国務長官と松岡外相の険悪な関係に窮し、辞意を表明しました。

 「かくして事態は、重外交問題を処理するどころではなくなってきた。」「公は陸海相と協議し、異見を持つ外相一人を辞めさせるのが適当と、そういう意見も成り立ったが、」「時局重大の折柄、総辞職するのが良いという意見に一致した。」

 しかし陛下は、松岡だけを辞めさせられないかと仰せになりました。この折の、木戸内府と近衛公の意見を紹介します。

 〈 木戸内府 〉

 「この緊張した時局の中で、」「理由の不明確な政変は、絶対避けるべきである。」「松岡一人が辞めるべきで、もし松岡が退かないなら、その時初めて総辞職となる。」

 〈 近衛公 〉 

 「組閣の当初、陛下も案ぜられ木戸内府も反対、」「その他多くの、松岡を知る人たちから、猛反対があったに拘らず、」「日米交渉を妥結させる唯一の同志として、能力ある者として、彼を推薦したのであるから、この責任は重大であり、辞表を提出すべきものと考える。」

 第二次近衛内閣が総辞職し、ここまでが近衛公が直面した難局の一つでした。しかし次には、東条陸相が前に立ちはだかります。このまま進めたいのですが、スペースがオーバーしてしまいました。頭を冷やすためにも、一区切り入れるのが良いのかもしれません。

 歴史上の人物は、見る人の立場の違いで善人にも悪人にも変じます。氏の説明が客観的事実であるかどうかは、時の経過が証明するでしょう。そう考えながらも、初めて知る事実の数々にただ驚いています。

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