覚悟を持つこと | 不思議なことはまだまだ起こる

不思議なことはまだまだ起こる

不思議なことはまだまだ起こる。
この言葉が私の頭の天辺からつま先までを抜けた。
この日から、私は自分の人生が自分の思うがままに生きられることを知った。人生って最高!

最近、同じ寺社の名前ばかり見たり、聞いたり、するのよね~という方、そうで無い方、ぽちっと、応援お願い致します。


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有難うございます。
呼ばれているのだと思います。
お時間を作って、是非、足を運んでくださいませ。
良きご縁に繋がると思います。
ささっ、本文を読んでくださいませ。

 私は、人様の事を視させて頂いているという方、又は、そのようになりたいと仰る方と、何度かご縁を頂いたことがあります。

「私には、きっと、やんちゃさんよりも、高い能力があって」とか、「私は、やんちゃさん以上に、色んなことを感じたいです」と、お話くださった方々には、ご無礼を承知で、「私を基準に置いている段階で、貴方には、人様、その背景の方々のお心に触れることは出来ないと思います」と、申し上げました。

私の母方の曾祖母は、盲目でしたが、人様のことが視える人だったそうです。
数年前に、ブログのタイトルでもある「不思議なことはまだまだ起こる」という言葉を頭で聞き、そのことを、私が19歳の時に亡くなった母の妹である叔母に話した時に、突然、叔母が、曾祖母の事を話してくれ、知ることになりました。
母からは、一度も、そのようなことを聞いたことがなかったので、とても驚きました。

そして、叔母は、曾祖母が、ある寺に、観音像として祀られているとも話してくれました。
曾祖母が、観音像となって建っているのは、曾祖母を慕ってくださった方々が、曾祖母他界後、建ててくださったからです。
そして、建ててくださった方々も、この世を去る前に、ご子孫の方々に、「私が、亡くなったら、分骨して、あの観音像の下に納めて欲しい」と、お言葉を残され、今も、曾祖母と一緒に、沢山の方々が、眠っていらっしゃいます。

私は、事を知り、曾祖母の観音像のもとへ、何度も足を運びましたが、月日が経った、今も尚、常に、花が手向けられていて、とても美しい姿を保っています。
それは、ご子孫の方々にとって、ご先祖様のもう一つのお墓になっているからなのだと思います。
初めて、観音像として建っている曾祖母を見た時は、誇らしいという気持ちなどは芽生えず、ただ、ただ、嬉しいという気持ちだけでした。

私は、子供の頃から、人に、どう伝えて良いのか分からない感覚がありました。
思いのまま話せば、「どうして、そんなことを言うの?」と、怪訝な顔をされ、後に話せば、「どうして、そのことを言わなかったの?」と、責められ、何一つ得なことはありませんでした。

会社に勤めるようになってからも、そのようなことは、続きました。
私は、コールセンターで、お世話になったことがあるのですが、一人一人が担当している内容について、お客様からご連絡を頂くことがあり、最初に電話を受けた方が、担当者を探す前に、お客様の名前と、誰が、その担当なのかが、分かることがありました。
それは、常ではありませんでしたが、時々、そのようなことがあり、『あの人が、その方の書類を持っている』とは思ったのですが、どうしても口に出すことが出来ませんでした。
後から、理由を尋ねられることが、怖かったからです。

電話を受けた方は、ずっと、探していましたが、当人が、電話中でしたので、気が付くことは無く、保留が長くなり、電話口に出られるようになった頃には、お客様は、ご立腹で、担当の子は、電話口で、何度も、頭を下げて謝っていました。
「大変申し訳ありませんでした」と何度も、何度も、言っていました。
その姿に、私も、『本当に、ごめんなさい』『許してください』と、心の中で言い続けていました。

そのようなことがあり、自分自身の中でも、自分の感覚を疑い、責めていましたし、感じることを煩わしいと思っていました。

ですので、身内に、同じように感じていた人がいたんだと分かった時には、何となく、自分が救われたいう思いと、心のどこかで探し求めていた人に、漸く会えたような気がしました。

私は、今、曾祖母と同じような道を歩むことになりましたが、人様と、ご縁を頂く、その方を視させて頂くことについて、曾祖母以上になりたいなどと考えたことはありません。
ですが、曾祖母以下であって良いと、心に甘えを持つことは、決して許されないことだと思っています。

それは、時代の流れの中に、身を置いているからです。

曾祖母は、「皆様が良き方向へ」との一心だったと思います。
曾祖母に限らず、その道を歩んで来られた方々は、皆さま、お心一つであったと思います。

当時は、今のような「スピリチュアル」などという言葉は無い時代で、目に見えぬことを、人様にお伝えするには、風当たりが、非常に厳しかったと思います。
曾祖母は、覚悟を決め、家を出て、この世での命が尽きるまで、懸命に事に当たったそうです。

また、私に、このような道を勧めてくださった方は、私の背景に、曾祖母の存在を感じつつ、「あんたには、曾祖母さんと同じものがある。だけど、人を視るということは、命懸け。驕り、見誤れば、命を落とす」と、仰いました。

その方は、大本に戻って行かれましたが、あの時、とても真剣に、そして深刻に、話してくださったお言葉が、今も心に、深く、刻まれています。

人様を視させて頂くということは、その道を歩んだ先人の方々以上の力をつけることは当たり前のことです。
この世は、人のエネルギーが強くなっている分、乱れやすいのですから、身を整え、お相手のお心を汲み、背景の方々のお心を受け止め、驕らず、高ぶらず、事を進める心を持つのは、当然のことです。

ですので、人様を視させて頂くことに、少しでも、先人の方々のお気持ちを汲み、お力添えを頂こうと思うのであれば、協力関係にあることです。
互いに、支え合うことです。

それを、「貴方以上とか」「貴方よりも」と、仰るのであれば、それは、この世を一緒に生きている方々の上に立ちたいというお心でしかなく、寄り添うお心、懸命に生きましょうというお心が、無いのだと思います。

一緒に、この世を過ごしているのですから、「以上」も「以下」も無く、「一緒」という心だと思います。

私は、そのようなお心持の方には、私が心掛けている事、その方の身が整って、これから先も続けて行けるだろう話をさせて頂き、お伝えさせて頂きますが、覚悟がない方には、お話致しません。

人の上に立つことを望み、高みから、人様を視たいと仰る方は、必ず、お相手チームの反感を買い、その方自身が、ご自分の人生を、生きにくくしてしまうからです。

人様を視させて頂くことで、一番大切なのは、誰か「以上」「以下」であることでも、「高い」「低い」でもなく、ご自分の身が、その時、整っているか、どうかです。
能力があるという驕りで、身を整えることなく、お相手、お相手チームの方々に接することは、誠意に欠けます。

ですので、人を基準になさる方は、そのことばかりに意識が向き、真を感じていないと思います。

本当に、人様を視させて頂こうというお心があるならば、どのような時も、ご自分の命を懸け、真を伝え、また、ご自分の命を守ることを、お考えになられることだと思います。
そのような覚悟が、何よりも大切なことだと思います。

沢山の方々に読んで頂きたく、参加させて頂いております。
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出版社:KADOKAWA

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