真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「南京大虐殺」への大疑問?NO3

2015年05月25日 | 日記

  『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)には、見逃すことの出来ない指摘がある。それは「捕虜」の「釈放」に関するものであり、「日本軍の捕虜殺害と釈放」と題された文章の中にある。

 著者は「南京戦のとき、日本軍として非難されても止むを得ない捕虜殺害があったことは書いておかなければならない」と「捕虜殺害」があったことを認めている。そして、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」によって判明しているとして、笠原十九司氏の『南京事件』から、下記を引用しているのである。少々長いが、大事な記述だと思うので、そのまま孫引きしたい。

〔12月12日午後7時ごろ〕最初の捕虜を得たるさい、隊長はその3名を伝令として抵抗を断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 〔12日夜〕捕虜は第4中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜20名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後10時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。(『南京戦史資料集』678頁)

 そして、著者はこの文章に関して

戦闘詳報によると、この捕虜は千五百名余は、12月12日に南京城外で戦っていた支那軍が味方によって城門を閉ざされ、日本軍は退路を失った彼らを城壁南側のクリークに圧迫して殲滅するばかりだった。彼らは味方にも見捨てられた哀れな兵たちだった。その内訳は、将校18、下士官1639だったとある。
 このときの旅団命令、連隊命令は確認できていないが、執行当事者の困惑ぶりが伝わってくるような気がする。これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである。
 なお、戦闘詳報に基づく捕虜処断を書いたから、同じく戦史に残っている鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報中にある下関地区での約五千五百名の捕虜全員釈放の記録も並列して述べておかなければならない。彼らは、12月14日午前、南京の西を北上して挹江門西側に進出してきた日本軍に投降したもので、北から南下した佐々木支隊が江上に逃亡せんとしていた敗残兵を発見するより前のことだった(『南京戦史資料集Ⅱ』319頁)
 他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へむ進。

と書いている。しかしながら、捕虜殺害にかかわる記述は、何も「宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけではない。著者が引用している笠原十九司氏の『南京事件』では、宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊の捕虜殺害の記述の前に、第十六師団の捕虜殺害の記述がある。すでに一部を抜粋しているが、捕虜殺害に関しては、第16師団歩兵第三十三聯隊同師団第二十連隊、また、第十三師団山田支隊などにもいろいろな資料がある。
 なぜ、著者は、あたかも他には捕虜殺害がなかったかのように「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけを取り上げ、「これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである」などと、一つの事実で、読者に判断させようとするのか、疑問なのである。

 また逆に、なぜ「他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む」として、他の「捕虜釈放」の記録をきちんと示さないのであろうか。私は、南京戦に関わる陣中日記や元日本兵の手記などを読むたびに、捕虜殺害の記述をくりかえし目にしたが、「捕虜釈放」の事実を記したものは、ほとんど目にしていない。「釈放の記録は多い」とは思えないのである。

 捕虜を釈放したという「鹿児島歩兵第四十五連隊」が属していた「第十軍」には、下記のような事実や命令があったことも考慮しなければならないと思う。 

 1937年12月13日の南京陥落前日、揚子江上において、危険を避けるためにくり返し所在を日本側に伝えていた米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させたのは日本海軍機であったが、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加えたのは、橋本欣五郎大佐の指揮する第十軍野戦重砲兵第十三連帯であった。そして、レディーバード号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けているが、その時、第十軍野戦重砲兵第十三連帯を指揮する橋本大佐が、「長江上のすべての船を砲撃せよ」」との命令を受けていたという。
 それは、12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第十軍が発した

1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし

という命令であるという。
 この命令は、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたために発せられたのだという。
 
 「南京より退却する中国軍を撃滅する」ということは、捕虜とした投降兵や敗残兵を「釈放」することとは相容れない。特別な事情があって、例外的に捕虜を釈放することは考えられるかもしれないが、中支那方面軍や第十軍の命令としては考えられないことだと思うのである。軍命令に含まれる「撃滅」とか「殲滅」という表現からも、「捕虜釈放」は考えにくい。だから、捕虜釈放の記録を明示すべきだと思ったのである。
 また、丁集団(第十軍)命令 (丁集作命甲号外)でも  
    一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
    一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す

とある。「城内を焼却」してでも「殲滅」せよというのである。敵兵であったものは逃がさないということではないかと思う。さらに、12月2日の丁集団命令(丁集作命甲第50号)には、下記のような中国兵の退路を遮断せよとの命令もある。

六、国崎支隊ハ広徳ー建平ー水陽鎮ー太平府道方面ヨリ揚子江左岸ニ渡河シ爾後浦口附近ニ進出シ敵ノ退路ヲ遮断スヘシ

 こうした作戦や命令は、どれも「捕虜釈放」とは結びつかないのではないかと思う。

 著者が指摘している「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の記述の詳細を確かめるべく、『南京戦史資料集Ⅱ』を開いたが、版が違うのか、319頁は「山田栴二日記」(第十三師団、歩兵第百三旅団長:少将)の記述であった。また、文章がやや複雑で、どういう資料に記述があるのかはっきりしない面もあるが、手元の『南京戦史資料集Ⅱ』にはその記述はなかった。

 なお、「山田栴二日記」には、捕虜の釈放ではなく、逆に、下記のような「捕虜」の「始末」(殺害)(同書では「仕末」となっている)に関する記述がある。12月15日には「皆殺セトノコトナリ」とあるが、山田旅団長に命令できるのは、師団あるいは上海派遣軍、さらには、中支那方面軍ということになるのではないかと思う。
ーーー
 12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

 12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

 12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

 12月17日 略

 12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

 12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス

ーーー
さらに、『南京戦史資料集Ⅰ』には、第十六師団の師団長に、下記の文章があることも、再度確認したい。
ーーー
                     中島今朝吾日記
                                  第十六師団長・陸軍中将15期

12月13日  天気晴朗 

一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ


一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ 


ーーー
 したがって、「捕虜」の「釈放」があったとすれば、それは極めて例外的なことだったのではないかと思う。著者が”他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む。”ということが納得できない。

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