真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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自主憲法 マッカーサー憲法 平泉澄

2017年07月06日 | 国際・政治

 平泉澄は「国体と憲法」のなかで、

憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。

と書いていました。
 関連して気になるのが、改憲の動きを本格化させている安倍政権のいわゆる「自主憲法」の内容です。特に現在、憲法に関して世間で注目され議論されているのは、「前文」や「第九条」に掲げられた平和主義の問題であり、自衛隊の問題ではないかと思います。でも、同時に見逃すことができないのは「自主憲法」が、戦前・戦中の神国思想に基づく「国体」を取り戻そうと意図しているのではないかということです。
 今は、まず改憲することが課題のようで、平泉澄のように、露骨に「欽定憲法」を持ち出したり、「日本国憲法」を「マッカーサー憲法」と表現したりはしていません。しかしながら、改憲しようとする人たちの考え方は、平泉澄の考え方と大きく異なるものではないように思われます。したがって、改憲が意図するところを見定めず、「憲法」は時代に合わせて変えられて当然などと、簡単に「改憲」を認めることは、いかがなものかと思います。
 また、「日本国憲法」は「押しつけられた憲法」であるとして、改憲を認めるのも、問題があると思います。たしかに、日本国憲法には手続上の問題もあるかも知れません。でも、大事なのは多くの国民が、日本国憲法の平和主義を支持し、「自主憲法」が意図するような改憲を望んではいないということだと思います。

 平泉澄は、明恵上人を「最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だ」と高く評価し、下記のように「国家の命脈」の中で、明恵上人が北条泰時を叱りつけたときの言葉を引いています。でも私は、
一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべくんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし
などという明恵上人の考え方は、とても受け入れることができません。そして、日本軍の人命軽視は、こうした神国思想の考え方と深く関わっているのではないかと思います。

 戦時中、役所の関係者が、「おめでとうございます」と言って「赤紙」(召集令状)を渡したり、赤紙によって戦地へ向かわなければならない人が「ありがとうございます」と答えて受け取ったり、出征する若者を地元関係者が「万歳」で送り出したりしたことなども、天照大神の末裔である天皇が現人神とされていた「神国日本」だからこそ可能だったのではないでしょうか。「おめでとうございます」も「ありがとうございます」も「万歳」も、自然な日本人の感情の表現だったとは思えません。 

 あるジャーナリスト(倉田 宇山氏)が、取材でフィリピンのセブ島を訪れ、遺骨を掘り出す作業をしていた現地の人に、「戦後、大きな復興を遂げて経済大国となった日本が、何故フィリピンの民家の裏山に遺骨を放置しているのですか? フィリピンは貧しい国ですが、その多くはクリスチャンです。クリスチャンは遺体を火葬しないので、どんなに貧しくて立派な墓石が建てられなくても、たとえ土饅頭であっても、お墓を造ってそこに遺体を埋葬します。日本人は自分たちの祖国を守ろうとして頑張ったナショナル・ヒーロー(民族的英雄)を放置するのですか?」と言われ、”皆さんだったら、どうお答えになりますか? 私は、答える言葉がありませんでした。”と投げかけていましたが、皇軍兵士は、天皇のために死ぬことを喜びとしなければならなかった結果ではないかと、私は思います。現地の人にとっては、アメリカ軍は、戦闘が終われば米兵の遺体はすべて引き上げて持って帰ったのに、日本軍はなぜ兵士の遺体や遺骨を放置するのか、その違いが不可解だったのだと思いますが、それは、やはり神国思想を抜きには理解できないのではないかと思います。


 軍人勅諭には「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」とあります。また、教育勅語には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあります。皇軍兵士は、文字通り「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」べく、自ら「鴻毛よりも輕い」命を捧げたという考え方なので、戦地の遺骨収集にはあまり熱心ではなかったということではないでしょうか。
 出征兵士が、ほんとうに日本国民のために戦わなければならないと自覚し戦死したのであれば、また、送り出した人たちが、ほんとうに出征兵士が自分たちのために戦って死んだのだと受けとめていれば、遺骨が長く放置されることはないのではないかと考えるのです。
 改憲の意図するもの、特に神国思想の復活の兆しを見逃してはならないと思っています。

 下記は、「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から抜粋しました。

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                     国家の命脈                   
 ・・・
 次に武家時代におきましては、我が国の国体が著しくそこなわれて居りましたことは、長い間、われわれの先輩が慨嘆した通りであります。ただし私は、鎌倉幕府においても、源頼朝あるひはその子、実朝といふ源氏の二代の将軍は、これは全然別のものだと思ひます。いはゆる武家政治の中に入るにしましても、ほかの武家とは全然趣を異にするものである。日本の国体におきましては、これらの人々は何びとにも劣らない、最も純粋にして清潔なる考へを持って居たと思ふのであります。
 それは、平家が亡びまして、すでに天下が頼朝一人の武力に服しましたときに、頼朝が申しました言葉、文治元年の六月に、尾張のある武士が、勅命にそむきましたときに申しました言葉でありますが、「綸命(リンメイ)に違背するの上は日域に住むべからず」貴様は、天皇の勅命にそむくつもりか、それならば日本の国に居てはならぬ、この国を出て行け。これが頼朝の言葉であります。日本の国体は、当時最も危殆に瀕してをりましたが、それが頼朝のこの一言によって天下は治まったのであります。すばらしい言葉と言はなければなりません。

 これは吾妻鏡文治元年六月十六日の条に見えてゐます。尾張の玉井四郎助重に対して、頼朝の申付けましたのは、「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず、関東を忽緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず、早く逐電すべし」といふ強硬なる裁断でありました。

その子、実朝に至りましては、御承知のごとくに「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも」といふ歌を詠んでおります。この歌の意味するところは実に深刻であります。これは当時、後鳥羽上皇をはじめとしまして、朝廷におかれましては政権を朝廷に回収せられる御計画がございました。そして実朝に対して密かに連絡をおとりになりまして、実朝をさとして大政を奉還せしめる御計画があったのであります。そのときの歌でありますが、きわめて簡単な歌でありながら、非常な決意をもって勅令に随順奉る意思をここに表明しております。「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも。」当時、実朝をして大政を奉還しようとしますならば、鎌倉は一瞬にして血の海と化するでありませう。北条は必ずこれに反対するに決まってをります。鎌倉においてはすぐに殺戮が行はれるであらう。さういふ非常な事態を予想して「山は裂け海はあせなん……」かう詠んだのであります。どんなことが起こるかもしれませんが、陛下の勅命には絶対に随順し奉る考へでございますといふことを申し上げたのであります。事は外に漏れたでありませう。彼は間もなく北条の陰謀によりまして、鶴岡八幡宮の社前に暗殺されるのであります。
 ・・・
 その実朝を殺して天下をわがもの顔に振舞はうとしました北条、やがて大軍を提げて京都をおかすのであります。東海道を攻めのぼるもの十万、東山道五万、北陸道四万、合わせて十九万騎を急速に出発せしめまして、京都を攻撃いたしました。そしてやがてお三人の上皇を島々へお流し申し上げたのでありましたが、その非違をあへてしました北条泰時に対して、真向からこれを叱りつけられたのは、栂尾(トガノオ)明恵上人 (ミョウエショウニン)でありました。この明恵上人は、わが国仏教史の中において、もし十人の高僧をとるならばその十人に入り、五人を選んでもその五人の中に入りませう。最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だと思いますが、その明恵上人が、泰時を叱りつけて言ふには「一朝の万物はことごとく国王のものにあらずといふことなし」。およそ日本の国にあるものは全部陛下のものであって、それをわれわれは拝借して使わせてもらってをるに過ぎないのである。したがって、もしこれをよこせといふ勅命があれば、どんなものも差しあげてしかるべきである。もしこれを背くべくんば、この朝の外に出、日本の朝廷の御稜威の外に出て、天竺、震旦(シンタン)にも渡るべし。 支那にも、印度にも行くがよい。これは頼朝の言葉と明恵上人の言葉と全く同じことであります。「勅命に違背する者、日本に住すべからず」出て行くがよい。この言葉をもって泰時を叱ったのでありました。
 明恵上人が北条泰時を諭した事は、栂尾明恵上人伝記に見えてゐます。「忝(カタジケン)くも我朝は、神代より今に至るまで九十代に及んで世々受継ぎて、皇祖他を雑(マジ)へず、百王守護の三十番神、末代といへどもあらたなる聞(キコエ)あり、一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし、伯夷叔斎は天下の粟を食はじとて、蕨(ワラビ)を折りて命を継ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰(ツ)められて、其理必然たりしかば、蕨も食せずして餓死したり、理を知り心を立てる類、皆是の如し、すれば公家より朝恩召放たれ、又は命を奪ひ給ふと云ふとも力無し、国に居ながら惜み背き奉り給ふべきに非ず、然るを剰(アマツサ)へ私に武威を振て官軍を亡ぼし、王城を破り、剰(アマツサ)へ太上天皇を収奉て遠島に遷し奉り、王子后宮を国々に流し、月卿雲客を所々に迷(マド)はし、或は忽ちに親類を別れて殿閣に叫び、或は立所(タチドコロ)に財宝を奪はれて路巷に哭する躰を聞くに、先づ打見る所、其理に背けり、若理に背かば冥の照覧、天の咎め無からんや、(中略)なみなみの益を以て此罪を消す事有るべからず、是を消す事なくば、地獄に入らんこと、矢の如くならざらんや。」

 かういふ古いところのいろいろの事実をみてきまして、日本の国体がいかなる人々により、いかに重大な決意をもって守られてきたかといふことを考へまして、さて今日の問題に及ばなければならないのでありますが、徳川時代になりますと、足利は言ふまでもありませんが、徳川の世におきましても、この国体の大義は
幕府の全体としてはほとんど無視せられてきたのであります。これは慨嘆の至りであります。武家全体としては、前の源氏の二代は全く別格であります。それ以外は日本の国体においては、ほとんど理解するところがないといってよい。
 ・・・以下略 

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