建築と福祉と宗教

建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知らない世界。

西暦1世紀から共に歩んだ神と仏〈如来神力品〉

2017-11-21 14:41:33 | ライフスタイル
いよいよ神と仏の教えの歩調を合わせ始めたイエス・キリスト誕生の西暦1世紀頃に今の私たちは一度、振り返ってみる価値があります。
それは西暦幕開け以降の私たちは、一人一人皆公平な世界の中の一人だからです!
 
真実の宇宙の神秘は文字では語り尽せない
 
人類誰もが平等に見上げてきた広大なる宇宙、その神秘なる真実を紀元前の大昔から追い求め続けて、それを全人類が公平に知るためを目標に普及を図ってきたのは聖書も仏教も同じです。
しかし、聖書であろうと仏教であろうと、広大な宇宙の究極の真実そのものをこの地球上における伝達手段を用いての言葉や文字だけで表そうとしても到底あらゆる真実の真相を表現し尽したはずはありません。
 
古代から大宇宙の神秘を知りたいと願い続けてきた私たち人類の先祖たちは数々の研究を続け様々な議論を裏付ける詳細な想定を繰り返してきただけです。
それら意欲果敢なる先祖たちは各々に平和な集団を築き、各々の地域や考えによる各々の角度で全く別々に挑んできていたのが西暦以前のことであったでしょう。
そして、これらの研究組織の中でもとりわけ宗教の根本を目指し公平な人類のために組織編成を繰り返してきたのが聖書と仏教であったといいうことと、その二大派閥が大きく分けて神と仏への各々の絶え間ない信仰だったのは間違いないことでしょう。
 
聖書が仏教へ働きかけていた秘密の歴史
 
ところで、神と仏への信仰のこの二大派閥間による人類への普及方法の特徴として大きな違いと言えば、聖書派閥が仏教派閥へ普及に出向くということは長い歴史上において古くから頻繁に行われてきていた実績があるようですね。しかしその反面、仏教派閥から聖書派閥へはほぼ普及に出向くということがなかったのは定説な習慣であったように思えることがなんとも不思議ではありませんか?
 
この神と仏の信仰間の往来として聖書から仏教へのみの一方向的な普及活動の流れがあったことに関して、例えば旧約聖書のアダムとイブがエデンから追放されて二人は行き場を失ったとするなら、その後の生き場を保護したのは仏教であったとしても可笑しくないことに思い至りませんか?現に仏教の釈迦に関する阿難や弥勒などはほぼ聖書側の教えイメージに似通って見えても何ら不思議ではありません。また、四大弟子と言われる声聞地位だった四人も皆、聖書の神に沿ったような感覚で方便比喩話を得意に作り上げては釈迦と同等に長らく修行に励んでいた仏道修行者たちであるはずです。
 
新聖書と共に歩んだ西暦の法華経
 
それは、紀元前にインド国で中心にまとめられていた仏教の法華経経典が初めて中国において最終的な編さん作業がされ出したのが西暦50年頃、即ち西暦1世紀だったのです。その編さん作業は数百年にも及び最終的に西暦406年に中国長安でほぼ今の状態に完成されたと言われているのです。
したがって、私はこの重大事実を今知って、今言わざるを得ません。
 
聖書と仏教はすでに暗黙にも紀元前から互いに勘案されてきていたのが自然であり、キリスト誕生以来の西暦1世紀を境に内容の混成と一体化を協約してきたはずなのです。
この地球上でたとえ神や仏に宿られた人間が宇宙のことを人類のために文書に変換して表わされてきたのだとしてもその文書は人類による人類のために活用されるためだけの目的で作られたのです。
ですから、私たち人類がこの地球上でたとえ宗教種類は違えど同等の宇宙の真実について推論してきている歴史があるのです。
その数々別々に存在してきた宗教派閥が互いに同じ普遍の宇宙の中で共存する同一な意義を同時一斉に確定させた西暦の幕開けはより一層、地球上の人類が宇宙の真実へ近づいたと言ってよいでしょう。
 
その真実なる宇宙へのさらなる未来への共存と地球の進化のすばらしさを維持していくための最善の仕組みは、私たちは宇宙人ではなく地球人なのであるがためにこの地球上であえて幾つかの議論に方向分けをしておく派閥保存が何より合理さなのではないかと言えるのでしょう。
 
(ぶっけん 成安田)
⇒ 如来神力品の「真実」 神様を祈る仏道修行者たち






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