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さくらの花びらさんのブログよりの転載です。

https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34841448.html

 

 

日本人は昔より「花は桜木、人は武士」という。
 
これは、我が国に咲き誇る「桜」は花の中の花とし、日本精神は「武士道」を以てその精華とすることである。
 
すなわち、桜は風吹けば何の未練もなく潔く散りゆく美しさがあり、武士は艱難に遭遇して君国の大事に及ぶや、何ら顧みることなく一途に命を致すからである。
 
戦前、日本人の多くが尊崇していたのが楠正成公であった。その家紋は「菊水」であり、「七生報国」は子供達も知る有名な場面である。
 
自ら「慕楠」という号を名乗るほど楠正成公を敬慕していた「回天」の創始者・黒木博司。この一人乗りの魚雷に乗って百発百中の戦果を挙げようと仁科関夫少尉とともに開発した。
 
仁科関夫は長野県南佐久郡の出身で、小学校から常に首席で通し、中学4年の時に難関の陸軍士官学校と海軍兵学校をともに合格した。両親は一高から東大に進むことを期待したが、年少の頃から尊敬していた楠正成公に傾倒し、武人たるべく海軍兵学校を選んだ。
 
昭和199月、大尉に進級した黒木は「回天」の実験訓練の事故で浮上出来なくなり殉職した。戦友達は仁科中尉を先頭に「黒木に続け」を合言葉に猛訓練に励み「菊水隊」が編成された。
 
昭和19118日、仁科中尉は黒木の遺影を胸に抱き、「七生報国」の白鉢巻きと「桜の花」をかざして熱烈な見送りに応え、西カロリンのウルシ―環礁のアメリカの太平洋艦隊目指して出撃した。
 
きっと700騎で数十万の敵に向かった楠正成公の「湊川の戦い」に赴く心境であったであろう。
 
 
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左から二人目が仁科中尉
 
 

この時、アメリカの給油艦ミシシネワ1隻が撃沈されたが、誰が命中したかは不明であったが、後にハワイに展示されていた回天には「撃沈した操縦者はセキオ・ニシナ」と書かれている。

 
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給油艦ミシシネワの撃沈

 

 
 

出撃前、既に敗戦を予期していた仁科中尉は出撃する前に艦長にこう言った。「自分達が礎となって日本は立派になるのです。自分達の死は決して無駄ではありません」

 
仁科中尉が命を捧げて願った「立派な国」とはどういう日本であるのか。
 
それはきっと経済繁栄することでも、行き過ぎた自由や権利ばかりを主張する日本になることでもなかったはずだ。
 
たとえ敗戦しても日本人としての“心”や“魂”を失わず、日本人としての“矜持”を失わないことにあったのではないか。
 
815日を前に、先人達の死を無駄にしないために我々がなすべきことは何であるのか、日本人として真剣に考えるべきである。
 
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「回天」にある菊水
 
 
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