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ねずさんのブログよりの転載です。

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日本文化は、ChinaともKoreaとも異なり、太古の昔から綿々と続いてきた文化です。
「世界最古の文明が保持された文化」と書いたら、すこし大げさに見えますが、実際にそのとおりと言っても過言ではありません。

 

どこかの国が、どうしても文明はChinaで生まれ、Korea半島を経由して日本に伝えられた、だから半島が兄であり、日本は弟であり、儒教的倫理に従えば、弟は兄に従わなければならないという、愚にもつかない屁理屈を言い立てています。
日本の学会は、近隣諸国に配慮しなければならないということに、なぜかなっていて、これに反する証拠がいくら見つかっても、なかなか、認められなかったりします。

それでどういう話になるかというと、
「聖徳太子以前の日本は
 たいへん遅れた国であって
 それまで日本には
 箸(ハシ)もなかった。
 食事といえば手づかみという
 原始的な生活をしていた」
という話になっていて、なんとそのような馬鹿げた妄想が、日本のテレビで妄想ではなく、歴史として紹介されたりするわけです。
何も知らない人は、テレビでやっていたからと、ころっと騙されてしまう。
まったくもって馬鹿げた話です。

そもそも日本文化は、ChinaともKoreaとも異なり、太古の昔から綿々と続いてきた文化です。
「世界最古の文明が保持された文化」と書いたら、すこし大げさに見えますが、実際にそのとおりと言っても過言ではありません。

 

箸(ハシ)についていうなら、いまから約6000年前の縄文時代の遺跡から出土している遺物が「箸」であるという説があります。
同様の形状のものを、Chinaでは完全に「箸だ」と言い切っているのですが、日本の考古学会では、全国各地で多数発掘されているこの棒状の物体を、ことごとく女性用の「簪(かんざし)」であるとしています。

なるほど長さ12cm前後のものは「簪(かんざし)」であろうと思います。
けれど長さ20cm前後ともなると、「簪(かんざし)」にしてはやや不自然です。
ところが日本では、何故か、30cm以下の棒状のものは、ことごとくこれは「簪(かんざし)」であると分類されていて、これを「箸(はし)」と分類したものはひとつもありません。

理由は、我が国の「古代箸(こだいばし)」が、新嘗祭で使われる、二本が後ろでつながったトングのような形状をした箸であったので、二本に分かれた棒状のものは箸ではない可能性がある、というものです。
そこで女性用のかんざしだったのではないか、とされています。

しかしトング箸を箸として使っていたのなら、それが割れて二本に分かれても、やはり箸として使用できます。
わかりやすくいえば、トング型の古代箸が、いわば箸の高級バージョンで、二本に分かれた箸は、普及品バージョンであった可能性も否定できないのです。

 

箸という道具が、どこの国で生まれようが、それ自体はさして重要なことと思いません。
しかしあくまでも、常識で物事は考えなければなりません。

縄文時代の遺跡からは、土器、漆器、木製品、籾(もみ)や種など多数の遺物が発見されていますが、すくなくとも縄文中期以降は、食べ物の煮炊きが、ごく一般に行われていたことが明らかになっています。
つまり縄文時代の人たちは、「熱いもの」を食べていたのです。

そもそも土器自体が火を使わなければ作れない物であり、縄文文化=火を使う文化であるわけです。
煮炊きをすれば、人は当然、熱いものを食べることになります。
とりわけ縄文時代の食生活の研究では、縄文人たちは鍋料理が大好きであったことが、研究によって明らかにされています。

熱い鍋料理を食べるとき、人はからなず何かしらの道具を使います。
でなければヤケドするからです。

ところが一部の学者さんたちは、その道具が「石匙(せきひ=石で出来たスプーン)」だと述べています。
遺跡に展示されている現物を見ると、かなり大型でザラザラしたものです。
普通に考えて、そんなもので食事したら、口唇が裂けてしまいそうです。

「木匙(もくひ)」を使ったという説もあります。
木でできた匙(さじ=スプーン)」です。
これも多数発掘されています。
同じ形状のものは、いまでも鍋料理に使われています。
鍋から煮物をすくい取るときに使う、大型の匙です。
しかし、これでは正直食べにくそうです。
大きすぎて口にはいらないからです。
むしろ鍋を作る時の道具と考えた方が、普通に納得できます。

「はし」という言葉は、日本に漢字以前からある大和言葉です。
大和言葉で「は」は、物の両端、物と物との境目、あるいは境目をつくるものを意味します。
ですから、物の端(は)、刀の刃(は)ですし、ムラの周囲にあるハラは、ムラの集落の外に広がります。

ちなみに、もともとの大和言葉は、一音一意であったとされています。
ですから「ムラ」ならば、「ム」は「むらがる」ことを意味し、「ラ」は「わしら、それら」というように複数を意味します。つまり複数の親族が群がって暮らしている場所が「ムラ」、その周囲にあって隣村との境界になっているムラの周囲が「ハラ」です。

「シ」は、物事をつなぎ留めることに使われます。
ですから思・詞・止・死などに使われます。
「死ぬ」のは、肉体と魂の「つなぎ」が「ぬ」・・つまり完了するから「しぬ」です。

したがって「はし」は、別々なものをつなぐ道具です。
あちらとこちらをつなぐのが橋(はし)、天地をつなぐのが「柱(はしら)」、食べ物と体をつなぐのが「箸(はし)」です。

漢字の「箸」は、Chineseでは「zhu(ちゅ)」です。
「hashi」ではありません。

そしてChinaでは、「zhu(ちゅ)」は「住(zhu)」と同音で、「住」は固定するという意味で縁起が悪いからと、いまでは「箸」という漢字は使わず、竹かんむりに「快い」と書いて「筷(zhu)」と表記するようになりました。
ですからいまのChineseでは、お箸は「筷子(kuai zi)」です。
そもそも読み方の音からして、日本語とは違うのです。

もとになる文化がなければ、近くにある大国の文化の影響をもろに受けることで、その国の文化が育ちます。
ですから半島の文化は、大国であるChinaと、中世に半島を征服した元(もんごる)と、古代と近代に半島を領有した日本の文化の合成です。
独自の文化といえば、あまり誇らしくない、残念なものがあるだけです。

ではその箸が、日本でいつから使われていたのかというと、古事記にその記載があります。
スサノオのミコトが出雲に降り立ったとき、「箸」が川上から流れてきたとあります。
古事記の原文では、「此時箸從其河流下」と書かれています。

そしてこれを見たスサノオのミコトが、川の上流に向かい、そこでヤマタノオロチを退治しクシナダヒメを娶ったと物語が続くのですが、このときに須佐之男命が見つけた箸(はし)は、おそらくトング型の古代箸であったろうとされています。
ということは、神代の昔に、すでに日本で箸は使われていた、ということです。

もっとも古事記は和銅5(712)年に献上された書なので、これでは証拠にならないと言われそうです。

しかしいまから1万6500年前という途方もない昔に既に世界最古の土器を使い(大平山元1遺跡)、1万2600年前には漆を栽培し(鳥浜貝塚)、9000年前には漆塗り製品を使っていて(垣ノ島B遺跡)、縄文時代から弥生時代にかけて、あれだけ様々な種類の食器を用いていた日本人が、実際に食べる時だけ「てづかみ」だったということの方が、論として無理があります。

日本では古墳時代頃まで「箸(はし)」は使われていなかったという説が論拠としているのは、魏志倭人伝です。
魏志倭人伝は、西暦280年から297年の間に書かれたとされる書物で、ここに邪馬台国の記述があり、そこには倭国(邪馬台国)の習慣として、
「食飲用籩豆手食」
と書かれています。

直訳すると、
「(倭国では)
 飲んだり食べたりする時は、
 竹籠や高坏を使い、
 手で食べる」
となります。

ここでいう「籩豆(へんとう)」の「籩(へん)」は、竹を細かく編んだ篭(かご)のような食器です。
「豆(とう)」は木をくりぬいて作った食器です。

 

籩豆(へんとう)
籩豆



食器だけが立派な高坏で、食べるのは手づかみだというのは、すこし妙な話です。
しかし「籩(へん)」は、主に「くだもの」を盛りつける食器です。
「豆(とう)」は、肉などを盛りつける食器です。
現代人でもみかんや栗などの果物や、フライドチキンなどを食べるときは、手づかみで食べます。

要するに魏志倭人伝の記述は、魏国からの使者をもてなすために、果物や肉などを「籩(へん)」や「豆(とう)」に盛り付けて歓待し、一同で、それを手づかみで食べた、ということが書かれているわけです。
それを一般の民の食習慣と勘違いされても困ります。

さらにいえば、魏志倭人伝の記述には、縄文時代や弥生時代の遺跡から多数出土している「椀(わん)」についての記述がありません。
数々発掘されている食器や、遺物から、縄文人たちはいわゆる「鍋物」が大好きで、日常的に鍋料理が行われていたことが明らかですし、ご飯も、すでに8000年前の遺跡から大量の籾殻が見つかっているなど、当時の人々が「煮炊き」して食事をとっていたことも明らかとなっています。

さきほども述べましたが、「熱いもの」を食べるのに、「てづかみ」で食べるとは考えにくい。
むしろ熱い食べ物は、ご飯は椀に、鍋物は大きな高坏などに盛って食べていたと考えるのが普通です。
その「椀」や「高坏」についての記述が、魏志倭人伝にはないのですから、これは、一般的食習慣についての記述とは言い難いものです。

東京芸術大学の三田村有純教授は、自書の「お箸の秘密」で、このことをはっきりと指摘しています。
面白いのは、この本が出たときのChinaの反応です。
三田村教授が6000年前の棒状の漆器が日本最古の箸なのではないかと指摘したら、すかさずChinaの学者が「Chinaで6500年前の箸が出土した」と発表しました。
あくまでも発表であって、発掘された遺物の検証は拒まれたままですから、要するに日本へのただの対抗なのだろうと思います。

ただ、「すかさず発表された」ということは、彼らは日本にものすごく関心を寄せ、鵜の目鷹の目で、日本の行動や出来事をcheckしているということです。
要するに、日本がうらやましくて仕方がない。

そのようなところに、いつまでも配慮など、必要ないと私は思うのですが、いかがでしょうか。

 

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