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さくらの花びらさんのブログよりの転載です。

https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/35106082.html

 

 

日本人にとって朝鮮人といえば「敵」ともいえるほど反日であり、過去の日本の”恩”を感謝することなく、いつまでもたかり続けるタチの悪い乞食民族である。
 
しかし戦前の朝鮮人には台湾人と同じように日本を理解し、今でいえば日本人以上に日本人といえる朝鮮人がいた。
 
朴鉄柱(ぼく てっちゅう)
私はこの方は日本の教科書で教えるべきだと思う。・・・
 
朴鉄柱は大正11年に釜山市で生まれ、大東亜戦争下で日本の皇典講究所を卒業し、釜山の龍頭山神社や新羅時代から関係の深い下関の住吉神社に奉職した。
 
朴は学生時代から『古事記』『日本書記』を通して、日本の建国皇統に深い関心を寄せていたため、神社に奉職することは何のためらいもなかった。
 
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戦後は朝鮮に帰ったが、李承晩の反日政権下で苦汁を嘗めさせられ、日本の学校を出た者は「民族反逆者裁判条例」で追放された。

 
そういう中、朴は朝鮮戦争が終わる昭和29年にソウルで「日本文化研究所」を設立した。
 
当時は日本でも敗戦のショックが覚めやらず、自国文化を否定して罵倒する言論がまかり通っていた頃であり、その頃に韓国で日本の精神や伝統や國體の研究の運動をしていたのであった。
 
この研究所には学生会館があり、常時25人から30人が共同生活しながら朴所長の講義を中心に勉学に励んだ。会員はソウルだけで1200名がいた。
 
朴は著書『日本と韓国』を刊行し、「日韓安定のためには、日本は古事記にさかのぼって日本の本然の姿を取り戻すべきであり、韓国は韓国形勢の根源を知らなければならない。秀吉の“朝鮮征伐”や“日帝36年”などは長い日韓の歴史からすれば派生的なことに過ぎない」とした。
 
反日感情の強い韓国でこういう運動をしていたのは奇跡に近く、やがて「反共法」にひっかかり、朴は裁判にかけられ、著書は全部没収、焼却され、3年半の刑と「日本文化研究所」解散命令が出された。
 
朴は刑期を終えて釈放されてからもKCIAの査察を受け、何度も投獄された。それでも初一念を曲げずに運動を続けるが、資金はなく、赤貧洗うが如しだった。
 
朴の建物は荒廃して目も当てられない状態だったが「これで松下村塾なみになりました」と笑っていた。
 
朴は吉田松陰のような生き方を以て日韓の懸け橋になろうとした。
 
そして朴はこのように発言したが、現代の日本人にこそ聞いてほしい内容である。
「韓国から日本を眺めていると、日本は“心”という字に見える。大きくは北海道、本州、四国、九州と“心”という字に並んでいる。
 
日本は素晴らしい。万世一系の御皇室を戴き、歴史に断絶がない。神道が現在に至るまで相続され、国家全体が調和されている。八紘一宇という考え方は日本の大らかさの現れであり、これは積極的に世界に知らせる必要がある。
 
それに比べ韓国の歴史はあまりにも悲惨であって、断層が深く、涙なくして見ることは出来ない。暗い場所から見れば明るい場所は余計にはっきり判る。韓国は日本の文化の豊かさから学ぶことによって内面的支柱を確立するように努力したい。
 
韓国の“檀君神話”といっても、韓国は日本のように統一した一つの神話になっていない。それに日本の神話は檀君神話より400年も前にまとめられた。
 
第二次大戦後の日韓関係は李承晩政権の影響もあって共産主義以上に日本を憎む傾向があった。そのため日韓の氷山の一角だけを誇大に強調して、隠された部分を見落としていた。お互いに精神的歴史的豊かさを掘り起こし、日本は自信を取り戻して、おおらかな民族形成の原点に立ち返ってほしい。
 
現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだのは日本である。
 
それまでの日本はアジアの希望であり誇り高き民族であった。最後はハル・ノートを突きつけられ、それを呑むことは屈辱を意味し、“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが開戦時の心境であった。それは日本人の武士道の発露であった。この武士道は西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。
 
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。
 
大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗れたのはむしろ英国をはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争で植民地全てを失ったではないか。
 
戦争に勝ったか敗けたかは戦争目的を達成したかどうかによって決まるというのはクラウゼビッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ聖なる戦争であった。
 
ある人は敗戦で日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。
 
二百数十万の戦死者は帰ってこないが、英霊として靖國神社や護国神社に永遠に生きて国民尊崇の対象となるのである」。
 
 
その後、朴は半身不随の大病にかかり、長い闘病生活の末、回復すると来日した。
 
また平成元年1月、先帝陛下の崩御では、朴は重い足を引きずって東京にやって来た。先ず二重橋の砂利の上にひざまづき、しばらくの間、頭を上げなかった。
 
御大葬の日には、雨の中を早朝から皇居前の列に加わり御見送り申し上げた。
 
名もなき一韓国人が、瀕死の身を氷雨に濡れながら泣いて先帝陛下に御別れをしたその悲しい真心こそ本物であった
 
平成2125日、朴は万哭の思いを抱きながら韓国の馬山で息を引き取った。68歳であった。
 
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