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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

伊能忠孝測量、江戸時代後期、岡崎付近の地図

2015-07-07 | 稲熊1区町内会
岡崎付近を切り取りました、岡崎城の城主、本多中務大輔とは
江戸の大名に武家官位(官職)があります。
「なかつかさたゆう」又は「なかつかさだゆう」です。
時代によって濁点がついたり、つかなかったりします。
本多忠勝や関ヶ原で討ち死にした島津豊久や江戸時代後期の大名・脇坂 安董 (寺社奉行、老中)もこの官位をもらっています。

100年前に有った乙見村(字稲熊)はここに記載なく、この当時まだ集落は伊賀や井田までだったようです。
また現在は市街地の乙川南に当時村は無く、田畑に隣接した住居が分散していたと推測しました。

伊能忠孝のこと
江戸後期の測量家。
初名、神保三治郎。
千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。
忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。
忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。

36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。
1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。

この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。
1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。
浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。
忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき 1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。
この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう 1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。

忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。
当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。
しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。
至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。


1797年(52歳)、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。
“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。
暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。
2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。

だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。
そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。
この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。
至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。
伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。

●第一次測量(1800年)~蝦夷地太平洋岸

●第二次測量(1801年)~伊豆・東日本太平洋側

●第三次測量(1802年)~東北日本海側

●第四次測量(1803年)~東海・北陸地方

享和3年(1803年)2月18日、前年に続いて堀田摂津守から辞令が下る。
今回指示された測量地域は駿河(静岡)から尾張(愛知)までの東海地方、能登半島や佐渡島といった北陸地方だった。
旅費は82両(約820万円)まで増額された。2月25日に江戸を発ち、沼津、御前崎(静岡)、渥美半島(愛知)、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。
そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着。
その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。
6月24日から北陸の雄藩・加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀する。

能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動した。
9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。
帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になった。
師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致し、師弟は手を取り合って大喜びしたという。
忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!

だが、それから間もなく、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねて床に伏し、年明けに39歳の若さで他界した。出会いから別れまで9年。
忠敬は嘆き悲しみ、師の墓がある上野・源空寺の方角に毎朝手を合わせた。
天文方には跡継ぎとして、子の高橋景保が登用された。

1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。
大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。同年秋、11代将軍徳川家斉が江戸城大広間で上覧。
そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は驚愕する。
忠敬の身分では将軍に接見できなかったが、その3日後、小普請(こぶしん/禄高三千石未満の御家人)組として10人扶持(ふち/一日玄米五合を一日扶持と計算した一年間分の米や金。
この場合その10人分)を与えるという通知が届いた。
そして忠敬に“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。


●第五次測量(1805年-1806年)~近畿・中国地方

●第六次測量(1808年)~四国

●第七次測量(1809年-1811年)~九州前半

●第八次測量(1811年-1814年)~九州後半

●第九次測量(1815年)~伊豆諸島

●第十次測量(1815年、1816年)~江戸

こうして1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、前代未聞の全日本地図の作成作業が始まった。
1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れた。
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面ゆえ、平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。
だが、この局面で忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎(老人性肺炎)に冒されてしまう。

病床で門弟の質問に返事を書くなどしたが、文政元年(1818年)4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。
高橋景保や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。

忠敬の死から3年後の1821年7月10日。
江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。
3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。


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