ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

新しくブログはじめました

2019-11-24 13:13:05 | 身辺雑事
セラピストの目から見た気づきのブログはこれで終了ですが、
next stageに向けて別のブログをはじめました。
セラピー関係の記事はありませんが、ごく日常を綴ったブログでもよろしければ見てくださいね。
     ↓
  「人生あきらめないブログ」

突然ですが、お別れです

2019-10-11 09:01:11 | 身辺雑事
突然ですが、本日をもってこのブログを閉鎖させていただきます。
OCNブログ時代から数えれば約15年にわたる長い間、ほぼ毎日の更新に対してお付き合い、ご愛顧いただきありがとうございました。
ただ、オーラソーマのボトルの意味が知りたい方などが検索でいまだに多くの方に訪問していただいていますようなので、少しでも役に立つことがあれば、と思い、このブログはこのまま残します。
ただ、今日をもって更新をいたしません、という意味です。
これまで多くの方に訪問していただき、ありがとうございました。



なぜ、今日をもってこのブログを終わりにするか、といえば、私がセラピストを引退しようと決めたからです。
このブログのタイトルをご覧になっていただければおわかりのように、これまで私は約15年、セラピーにかかわってきてその現場で気づいたことをこのブログに書き留めておこう、というのがそもそもこのブログを始めたきっかけでした。
それ以外の日常での気付きも多く記してまいりましたが、それもこれも「今日はセラピストとしてのわたし」「今日はオフで一般人としてのわたし」と厳密に分けられるものでもなく、オフのときであろうと時間外のときであろうと、それはセラピストとしての自覚のある私が気付いたことなのだから、自然にその精神がその気付きの中には溶け込んでいるはず、という思いからセラピーの現場そのもののテーマでないことも赤裸々に綴らせていただいてきました。



しかし、セラピストそのものを引退するとなれば私が書いていることはもう「ちょいスピでセラピー的な気づき」ではありません。
オーラソーマの資格を放棄して、「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」から「ちょいスピでセラピー的な気づきの日々」にタイトルを変えただけで、ブログをそのまま続けたときには、自分の中でなんの違和感もありませんでした。
セラピーのジャンルのなかに身を置いていることには変わりありませんでしたので。
しかし、まったくセラピストから引退となれば、私の気付きはただの「シニア日記」になってしまいます。
それはさすがにずるずるとここでそれを書きしたためていてもいかんだろう、と思いまして。
いったんちゃんと線引きをして区切ろう、と思いました。



まだ、この先の身の振り方については正直、何も決まっていません。
セラピストから引退しても、ひょっとすると今やっている「色で暮らしを彩る講座」のように、講座は続けるかもしれません。
その際には、このブログしか私は発信するものを持っていませんので、こちらに日程を書き記す程度のことをするかもしれません。
ようは、何も決まっていないけれども、私がセラピストを引退する、と決めたことだけは絶対的に決めたことなのだ、ということです。
どうして私がセラピストを引退しようと思ったのか、についても逐一、なんでも包み隠さずこのブログに書いてきたのだから、その経緯というか、心の移り変わりを皆さまに報告していこうか、などとも最初は考えていました。
しかし、結論として引退することを決めてしまった人間がその経緯についてあーたらこーたら言うのを興味深く読みたいか? と言ったら誰もそんなことは思っていらっしゃいませんよね。
もう辞めるならそれでいいよ、っていう“今”があるだけです。
いや、とくに何か衝撃的な事件とかなにかあったわけではありませんよ。
日々のなかで少しずつそういう気持ちに傾いていっただけのことです。



昨今のアイドルがよくやるように、「無期限休養」とかにしておいたほうがよくないか? 
また気持ちが変わるときもあるんじゃないか? そういうハンドルのアソビのようなものを設けておいたほうがいいんじゃないのか? なぁ~んてことも頭をかすめたこともありますが、それならそれで撤回、再デビューをすればいいだけのことで、今の私の気持ちとしては「休養」や「休業」ではなく、「引退」が素直なものなのです。
小奇麗に「卒業」という言葉も使いたくありません。
卒業なんて、いったいどのレベルにおまえは達したというのだ? 何からの卒業なんだ? 誰がおまえに卒業でいいよ、って言ってくれたんだ?とせせら笑っちゃいますよね。
もう少し早めに告知してソフトランディング、すなわち、
「もう引退しますので、私のセラピーを受けてみたい、とお考えだった方は今月中に来て下さいね~」なんていうキャンペーンでも張ったほうがいいのか? なんてことも考えましたが、これも縁。
縁があった方とは、これまでにちゃんと出会っていたことでしょう。
だからそれもいたしません。



3年ほど前、再開発にかかった自分の実家の飲食店を新しく再開発ビルがオープンしたときに私が続ける、という選択肢もあったものですから、迷った末、どれだけ身体が水仕事、立ち仕事に耐えられるのだろう? ということをひとまず自らの身体で体験してみたい、と思いランチどきだけ近くのレストランに働きに行ったことがありました。
そのときには、週2日か3日程度にしていましたし、1か月前にシフトが組まれるので、そのときまでにお客様の予約が入れば、もちろんそちらを優先していました。
だから何も問題ない、と思っていたのです。
あるとき、長年ふらりと予約くださるお客様から電話が入りました。
○日空いていますか? ○日は? と言われてたまたまあまりにも直近だったものですからすべてレストランのシフトが入っていてお断りせざるをえませんでした。
そのお客様が、
「今回は全然空いているところがないのねぇ」
とおっしゃったので、私は
「ごめんなさいね。今、ランチでレストランに働きに行っているときがあるものだから」
と言うと、そのお客様は、悲鳴のようにえ~~~っつ!!という驚きの声をあげたあと、
「いやだぁ。そんなほかに勤めに行っているセラピストなんて」
とおっしゃり、電話を切り、2度とその方からの予約は入りませんでした。



それがショックだったわけではないんです。
素直でストレートな表現をされる方だなぁ、と思いました。
確かにもし自分がセラピーを受けに行こう、と考えているセラピストさんが、
「私はダブルワークで全然関係のない分野の○○という仕事もしているので、1週間のうち3日しか空いていません」
と言われたら、やっぱりイヤかも、と思うからです。
セラピーに専従でないなんてやっぱり意識が薄いに違いない、とか、ほかのことで働かないと食べていかれない人なのね? ということは技術のない、評判のよくないセラピストってことじゃないの? とか邪推すると思います。
もっと人気があって活気あふれるサロンの人のところに行ったほうがいいわ、と。
だからあのときのそのお客様の一言は自分自身がお客になったときの心を映し出してくれたのでした。
ですので、「週末セラピスト」とか体裁のよいことを言って、ダブルワークで、セラピーも続けよう、とは今回露ほどにも思いませんでした。
もう、いったん心が離れたならきっぱりと足を洗ったほうがよい、と思っています。



今、くしくも“心が離れた”と書きましたが、それがやっぱり1番引退する理由としてはしっくりきます。
私はあるときから、自分で「おぅ、ここまでやったか。もういいな」と思う気付きを得てしまったのです。
そのときには、
「いやいや、だからこそ、これからはその自分の気付きをいかに人に還元していくか、ってことに燃えなくてはいけないんじゃないの」
と自分を奮い立たせようとしました。
しかし、どうも私はそういうタイプではなかったようです。
これからも私は「これが私らしいな」ということをその都度見つけながら生きていくことでしょう。



また、どこかで出会うこともあるかもしれません。
全然違うジャンルでどこかにブログを書いている日がくるかもしれませんが、
そのときは見つけて下さいね~

それでは、本当に長年、ありがとうございました。
みなさまのご多幸と健康をお祈りいたします。

愛着障害という現代病

2019-10-10 09:01:58 | 健康・病気
「東洋経済オンライン」にちょっとドキッとする記事が載っていたので、ここでもシェアさせていただきたいと思います。
記事はこちら→
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191009-00306661-toyo-soci&p=3



そもそもこの記事は精神科医・作家である岡田尊司氏の最新刊『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』からのもののようですが、どんな記事かと申しますと、現代では「愛着障害」という死に至る病があるというのです。
それは、特別な存在との絆である「愛着という仕組み」がうまく働かないと、生存にも、種の保存にも、重大な支障が生じるのだ、という。
全身傷だらけになりながら、自傷や自殺企図を繰り返すのも、稼いだ金の大半を、吐くための食品を買うためや、飲み代やホスト通いに費やすのも、物や金の管理ができず、捜し物と借金に追われ、混乱した人生に沈むのも、原因のよくわからない慢性の痛みや体の不調に苦しむのもこれらはみな元をたどれば同じで、生存と種の維持に困難を生じ、生きづらさと絶望をもたらし、慢性的に死の危険を増やす“生きる希望や意味を感じられない病”のことだ、というのです。
あぁ、これはいかにも現代病だな、こういう人多そうだな、と思い読み進め、ちょっとドキッとしました。



こういう人はたいてい
「私なんかいてもいなくても同じなんです」
という口ぐせがあるという。
彼らにとって最も大切な存在(たぶん、幼いときならたいてい親)が、彼らをあからさまに見捨てたか、かわいがっているふりをしていたとしても、本気では愛してくれなかった、という原体験を持っている。
自分のことをとても愛しているように見えるときでさえも、実は本当には愛せていない。本当には愛せない自分だから、理想の自分でないとダメだと思い、自分に完璧を求める。自信に満ちて見えても、それは、ありのままの自分を隠すための虚勢にすぎない。
これ、全部自分のことを言われているようでドキッとしたのです。



「私なんかいてもいなくても同じなんです」が私の場合、口ぐせではありません。
でもどこかで大方の人にとってはそうだろうな、と思っている。
もともと1番最初に勤めた会社をやめたのも、ある日突然、
「私のやっている業務なんて、別にいなくても回るようなことじゃないか」
と気付いてしまったからです。
実際、大きな会社になればなるほど、企画のアイデアを出す人間と費用対効果を考えたときにそれをやるのかやらないのか決定をくだせる経営のトップとあとはそれを実行に移す人間がいれば回るはずなのに、それらの間をつなぐようなパイプ役、ようは潤滑油のような役目が必要になってきます。
私はその潤滑油のような役目でしたから。
それで会社をやめ、自分でやることならば、当然のことながら私がいなければ困るわけだから、とそれ以降は少人数や1人でやることをしてきました。
でも、いつでも私の中にはどこか
「私のやっていることはほんとうに私がやらなければいけないことなんだろうか? いてもいなくても同じではないか」
という自問自答が続いているような気がします。



そして幼い頃の原体験といえば、妙に覚えているのが、私が寝るときに母にキスしたら、なんだか興がノッテきてしまって何度もキスしていたら母がうっとおしそうに
「もうやめてよ」
と拒絶したことです。
思えば、当時の母は夜は午前様まで働き、朝は早かったので、もう一刻も早く睡眠をとりたいばかりだったのでしょう。
だからこの一時をして「可愛がっているふりをして本気で愛してくれなかった」ということにはならないし、むしろその逆で、「あれほどの忙しさのなかでもよく面倒をみてくれたほうだ」と言ったほうがよいことはわかっているのですが、このときのなんでもない日常の一コマのようなことを今でも鮮明に覚えているのはやはり、幼い私がそのときは強烈に傷ついた、ということなのでしょう。



そして自分で自分を本当には愛せていないから、常に理想の自分であろうとし、そのためには出来る限り完璧にしようとする・・。



こう考えると病とまでは言わないにしても、誰でも彼でも、多かれ少なかれ経験があるようなことがたまたま重くのしかかってしまった人や、時期的に重なって多大なストレスとなってしまった人がこの「愛着障害」にまで発展するのかもしれません。
現代病の多くが言えるように、この病も、「どこからがホンモノの病か、どこまでが似ているけれどあなたはふつう」なのかが判別つきにくいなぁ、と思います。



そして私は次の言葉にハッとしました。
『 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。

 自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことなどない人が、口先の理屈で言う言葉に思える。

 いちばん大切な人にさえ、自分を大切にしてもらえなかった人が、どうやって自分を大切に思えるのか。』



自己肯定感や自己受容は私自身が自分のテーマだと思って1番大切にしてきたことですし、実際に潜在意識や起業のセミナーに行ってもよく言われたことです。
そして確かにあまりに言われると、
「そんなに自己肯定できないってことはいけないことなのだ・・」
とかえって落ち込んでしまいます。
それは、
「自己肯定できないあなたってダメよ」
というストレートなものでなくても、自己肯定できている人をことさらに褒めている場面に出くわしても感じてしまうのです。
その反対に自分は責められているような気がして。
そして、もしそう感じている、ということを言おうものなら、
「ほら、あなたのそういうところがダメなのよ」
と指摘を受けるだけだし、実際そのとおりなのだろうから、と余計に口をつぐむ。
あるいは、自分も一緒になって、その人の自己肯定話を褒めたり、我が事のように喜ぼうとする。



ただ、最近私は以前よりは自己肯定できるようになった自分を確信しています。
この前も、友人とLINEでやりとりしていたら、私とはもともとまったくタイプの違う友人の言動に
「へぇ~、そんなふうに思えるなんてうらやましいことだなぁ」
と思いました。
でも、それだけなんです。
以前の私だったら、「うらやましい」の先に、
「この友人のように思えない、行動できない私はダメな人間だ」とか、
「いったいどうしたら彼女のようになれるんだろう」
とあくせくしたと思います。
でも今は、「しゃあないやん。これが私なんだもん」と思うだけで、自分が「いいかげん」(いいかげんは良い加減であるわけですけどね・・)が嫌いで、なるべくきっぱりと完璧をめざそうとするところもそれはそれで認めてしまいます。


まぁ、早い話が「過ぎたるは及ばざるがごとし」。
どんな良いことでもやりすぎはよくない、ってことですね。

空家問題

2019-10-09 09:01:39 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

********************************************

<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

********************************************








先日、知り合いの方と一緒に、ある場所に向かうために車に乗せていただいていたときでした。
その人が、
「こんなところにはとても俺はよう住まんなぁ」
とおっしゃいました。
そこは「ポツンと一軒家」というようなそれほどの田舎というわけではありませんでした。
家もいっぱい建っています。
しかし、生活に必要なスーパーなり、病院なり、どこへ出かけるにも車は必ず必要というような場所で、周囲はちょっとした山に囲まれ、夜は更けるのが早いだろうなぁ、と思われるような場所でした。
「うーん、年取ってからだとかえって寂しいかもしれませんねぇ」
とわたし。
それからひとしきり「家」や「不動産」や「引きこもり」や「孤独死」やらの話となり、その人がふとおっしゃいました。



「家なんてね、今、『100均 不動産』で検索したら出て来るけど、100円で買えるようなところが全国にはいくらでもあるんだよ」
とおっしゃいました。
へぇ、と言って私は帰ってきてから実際に検索してみましたが、それは「空家ゲートウェイ」というサイトでこちらです。ご興味のある方はのぞいてみてください。
https://akiya-gateway.com/vacant-house/
その人がおっしゃるように“いくらでも”はありませんでした。
ちょろっと載っているだけでした。
でも、探せば確かに
「お金なんていらないから、とにかくもうこの土地と家を手放したいんだ。負担になっているんだ。誰かもらってくれないか」
という事情を抱えたオーナーはいっぱいいらっしゃりそうな気がしました。
岐阜にも空家はいっぱいあるからです。
どんどん増えてきているような気がします。



なぜこんなことになるか、といえば、たとえば1つの家族がいます。
夫婦2人に子どもが1人か2人、という典型的な核家族です。
子どもが小さいうちはまるで子猫が身体を寄せ合って温めあうかのごとく、この単位で一緒にいるのが楽しい、私たちは死ぬまで一緒なのだ、とばかりの幻想を抱いて暮らします。
しかし子どもは大きくなり、自分の夢を追って家を出て、都会で独り暮らしを始めます。
そのうち、その街でまた新たな子猫一家を作るべく伴侶を見つけ、その街でマンションを購入します。
残された親は古家で自分たちも古びていくばかりです。
その家にUターンしてきて子どもたちが継ぐことはありません。
昔の地主のように大きな、大家族で住み、ご先祖さまの土地と家は守らなければ、という家でもありませんから、親はあきらめて自分たちの世代でこの家は終わりだな、と思います。
そして実際に夫婦のうちのどちらかが老人施設に入らなければならないような状態になり生の終末を迎え、追ってどちらかも、となればその家は空家となります。
子どもたちはもう売ってしまいたいわけですが、買い手がつくような場所と家の状態ではなく、新たにリフォームなりリノベーションなりをすれば売れるかもしれないけれども、それでも売れないかもしれない、というリスクを冒してまで何百万やへたすれば1000万単位のお金をかけて直すような気も、実際に資金もなく、どうすりゃいいの、これ、というお手上げ状態で放ったらかし、という顛末なのです。
わかるわ~
うちはたまたま再開発にかかったから自分たちで始末しなくてもよかったようなものの、築40年以上のせせこましい家なんて誰が買うよ。
そんな空家が全国にはいっぱいある、ということなのでしょう。
「100年住宅」なんていうコピーを流行らせた住宅メーカーがありましたが、建築の構造として家が100年もったって、肝心の住む人間がその地域に居つかなければ意味がない。
親も、子どもが成人してもこの家から通える範囲のところに就職して、子どもは子どもでまた一生、この家に居てくれるんだ、なんて幻想をどうして抱くのでしょうかね。



なんで100円なのか? と言えばサイトの運営上3ケタの数字でなくては売れないという規則があるらしく、実際は無料でも1円でもオーナーはいいのだ、ということのようです。
要するに持っていたら固定資産税や雑草の手入れなどお金がかかるだけなので、誰かに所有権がうつりさえすればもう私はバンバンザイなのだ、ということなのです。
そして、こんな不動産を仲介して不動産屋はどんな収益があるのだ? ということですが、これは私が思うに自分のところに空家の情報が集まる、というゲートだけは広く持っておきたい、というだけのことでしょう。
そして釣りとして「100円不動産」コーナーをサイトに設けているだけで、実際には「おっ、これは少し手を加えれば1000万で売れるぞ」というような物件を見つけたら自分のところでリフォームをして高く売るに違いありません。
実際、「100均」で出ているような不動産は、何百万もリフォームにかけないととても住めないように思います。
今はやりの古民家風なリフォームでもすれば何千万でしょう。
需要と供給の関係ってうまくいかないものですね。



都心はタワマンばやり。
地方は空家ばかり。
格差社会がやってくる、と言われていますが、私はもうすでにやってきていると思います。
そしてそれは不動産の世界にもやってきている。
昔はどんなところであれ、とりあえず「土地もち」となればそれは財産だ(もちろん負の財産ではなく、正の財産としてね)という時代でしたが、今はヘタな田舎に土地や家を持っていたら、負の財産になってしまう、という時代となりました。
こんな小さな日本で、これほど空家が多くて一部の都心だけのタワマンがもてはやされたらこれから一体どうなるのでしょう・・?
私はアメリカのように、ライフステージに合わせて、家具付きでどんどん移り住む、というようになればいいのに、と思います。
土地を買う、という発想ではなく、家はライフステージに合わせて、一生の間にどんどん変えて当たり前、というように。
それが身軽にできるような制度が整備されないといけませんけれどね。
もう土地付の家が一生ものの財産という時代ではなくなりました。
昔からマンションのモデルルームに行ったって、女性はその建物構造そのものに興味をもったり、そこが一番大切と担当者を質問攻めにするというよりは、インテリアコーディネイターがしつらえた仮のインテリアに惹かれて購入を決めたりするんですよ。
いくら、そんなところはどうにでもなるって、と言われても。
「こんなところに住みたい!」
という女性の夢の描き方にはマッチしていると思うんですよね、ライステージごとに家具付の家に移り住むというのは。

身体の調子を見極めるジャッジのむずかしさ

2019-10-08 09:01:06 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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日曜日、久しぶりにゴルフに行きました。
ここ1か月以上、ずっと日曜日となると雨か台風接近のニュースばかりでしたので、長らく行っていませんでした。(そういえば、今週末もまた超特大の19号がやってくるそうで。世間ではせっかくの3連休なのにね。みなさま、気を付けてくださいよぉ)
ですので、ワクワクもしていたのですが、それ以上に緊張していました。
というのは、ご一緒させていただく方が、私より目上で、少し前に奥様を亡くされてお葬式にも伺ったのですが、そのとき、その方のやつれぶりにびっくりしたので、立ち直られているのだろうか・・・とそれ以来初めてお会いすることに少しドキドキしていた、ということもあります。



久しぶりにお会いするその方は、お葬式の日よりはさすがにお顔の色ツヤも回復されているようにお見受けしましたが、それでも
「最近はあまり食べなくなっちゃって・・」
とおっしゃり痩せた様子が気になりました。
その方に限らず、男性というのはほんの2,3歳ばかり自分より奥さまの方が年下というだけで(あるいは自分が男として妻の上に君臨してきたので、最後の最後までそれが続くであろうと信じて疑わないのか知りませんが)、必ず自分の方が先に冥途へ行けると信じ込んでいるふしがあります。
でも、人生何があるかわかりませんよね・・
この方の奥様もガンを患われ、あれよあれよという間に亡くなってしまわれたのでした。
年取ってから急に独り暮らしを強いられることになった男性ってほんとに目も当てられません。
「男やもめにゃ蛆がわく、女やもめにゃ花が咲く」
と言いますが、たいていこのフレーズ通りってことが多いような気がします。
この方はそのうえ、1年ほど前に足を骨折され、それがなかなかくっつかずに、急激に運動不足となってしまったために、ご自分でもおっしゃっていましたが、すとんと筋肉が落ちてしまったような気がします。



「今日は、ワシはほんとに久しぶりのゴルフだからスコアとかじゃなくて、まずは回れるかどうかが課題なので。18ホール回って来られたらよし、とするから」
と宣言されていました。
そして、もし深いラフに分け入ってボールを探さなくてはいけないことがあっても、足腰が弱っているから取りに行けないかもしれないので、そのために今日はキャディさんをお願いしたよ、とおっしゃいました。(今は、セルフプレーが多いのでね)
「バンカーに入ったら、もう打たずにギブアップにすると思うからそれもよろしく」
ともおっしゃっていました。



実は私たちもこの日、満身創痍のメンバーばかりでした。
私は前日、久しぶりに朝から晩までの立ち仕事でそれこそ歩けるかしらん、というほどの筋肉痛でしたし、もう1人の方は腰を痛めてやはり私と同様、ゴルフは何か月ぶり、という方でしたし、もう1人は先週のゴルフで足首を痛めた、という方でした。
ようは全員、ふつうなら故障者リスト入りで先発は無理、ベンチ入りのみ、みたいなメンバーでした。
ハーフが終わったときには、全員が疲労困憊で、あとハーフ回って来られるんかいな、という状態でした。
しかし、逆に昼休憩をとり、残りのハーフを始めると、身体が動かすことに慣れてきたのか、むしろみんなノッテきました。
奥さまを亡くされたその方も、無事1ラウンドを回り終えることができたうえに、スコアも本人が悲観されていたほどには悪くなく、この調子なら復活してまたバンバン回ることができるのでは、という感じでした。
ご本人もたいそうご満悦で、
「あ~、よかった、よかった。身体もとてもすっきりとした。今日は、皆さんありがとう。また近々やりましょう」
とおっしゃって、残りの3人もそれぞれになんとかまだやれそうだな、という自信を深め、それぞれが非常にすがすがしい顔色をしていました。



実は私は、先ほども言いましたが、前日の仕事がたいそうきつかったので、スポーツをしたあとの気持ちのよい筋肉痛というよりは、背中一帯にかけての背面痛がたたって、股関節まで痛くなり、それがたたって膝も痛くて・・みたいな状態だったので、もうゴルフなんてヤル気がしなくなってしまい、前日だけれども断ろうか、と思っていたくらいだったのでした。
しかし、それではキャンセルフィーも100%かかってしまうし、皆さんにも礼儀としてよろしくない。
これは一応、行くだけ行って、もし無理なら、途中からリタイアしようと思っていたのでした。
途中リタイアなら、「そんなにひどかったのに、ここまでは何とか頑張ったのか」と認めてもらえるだろうから、ともくろんだ、ということもあります。



そこで私はつくづく何が吉とでるか凶となるかわからないものだな、と思いました。
この日は、結果的に行ってよかったということになりました。
もし、前日にキャンセルしていたらまた次にゴルフに行くとき、「回れるのかな・・」という不安がつきまとったことでしょう。
けれど、この日はたまたま行ってよかったけれども、実際に行って、かえってよけいに身体の状態を悪くしてしまうことだって考えられたわけです。
その見極めってとっても難しい。
いや、「起こることに意味がない、なんてことは何もない」と思っているので、もし行ってかえって身体の状態を悪くしてしまっていたとしても、それはそれで何らかの気付きがあり、よかったなぁ、こういうことに気付けて、と思っているのかもしれません。
ただ、身体の状態のことだけいうとどちらが吉か凶かよくわからないものだな、という意味です。
これからこういうどちらに転ぶか、ということが往々にしてあることでしょう。
だって自分でもよくわからないんだもん。
まだまだ30代の頃と同じように動けるわ、と思うこともあるし、うへぇ、こんなに気を付けないとダメになっちゃったか、これではもう老人じゃないか、と思うこともあるしで。
そういうことを繰り返しながら、1つ1つあきらめざるをえないことが増えて行って、年を取って行くのかもしれません。