こんばんは。

少し前に、ルキーノ・ヴィスコンティ監督生誕110年と没後40年を記念し、「ヴィスコンティと美しき男たち~アラン・ドロンとヘルムート・バーガー~」 と題し、「山猫」4K修復版と「ルートヴィヒ」デジタル修復版がYEBISU GARDEN CINEMAで上映され、「山猫」を鑑賞できたのでその感想をblogに書かせていただいた時に、「ルートヴィヒ」も観たかったのですが、時間の都合が合わず、今回は観ることができませんと書いたのですが…実は観てしまいました(笑)。

今日はその感想を書いておきます。

前回のblogで熊川哲也さん率いる「Kバレエカンパニー」の『ドン・キホーテ』を収録した『ドン・キホーテ in Cinema』を鑑賞したことを書かせていただきましたが、それを一緒に観た友人が、その後、仕事関係で急用ができ、夕方まで抜けられないというので、僕はポッカリと夕方まで時間が空いてしまったのです。

『ドン・キホーテ in Cinema』が朝10時からでしたか1日一回上映で、同じ劇場の同じスクリーンでその後に「ルートヴィヒ」デジタル修復版が上映されると知った友人が「せっかくだから観ていきなよ」と言ったので、悩むことく「そうする」と決め、観てしまいました(笑)。

僕は決断が早いんです。食事するにしてもメニューはすぐ決めますし、何かを買いに行っても迷ったりしません。悩むってことをしないんですよね~。それがいいのか悪いのか…なんですけど(笑)

『ドン・キホーテ in Cinema』が約120分。20分くらい挟んで『ルートヴィヒ』デジタル修復版が237分。体力的に大丈夫かなとも思いましたが、『ルートヴィヒ』は途中休憩がありましたし、『山猫』同様、過去に一度鑑賞したことがある作品ですし、僕のDVDコレクションの1本ですので、観始めると時間など感じさせない、デジタル修復で美しく蘇った、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の魂の込もった渾身の映像美にただただ酔いしれました。自宅のTVで観るのもいいのでしょうが、大きなスクリーンで観るべき作品の一つだと改めて思いました~。

では、この作品の主役であるルートヴィヒ2世とはどんな人物だったのか少し説明しますね。

ルートヴィヒ2世の曽祖父に当たるマクシミリアン1世ヨーゼフ(マックス・ヨーゼフ)は、代々バイエルンの選挙候を務め、神聖ローマ帝国皇帝も輩出した名門の一族、ヴィッテルスバッハ家の傍流の三男として生まれたのですが、様々な事情が重なり、本家の当主となり、19世紀初頭のヨーロッパがナポレオンに統治されていた時期にバイエルンを公国から王国へと昇格させることに成功し、その初代国王となりました。

その国王マックス・ヨーゼフの後を継いだのが、王都ミュンヘンを近代的な都市に発展させたルートヴィヒ1世です。広場や道路を整備し、宮殿や将軍堂、美術館などを建設し、現在のミュンヘンのほとんどがルートヴィヒ1世時代に建てられました。芸術を奨励し、ヨーロッパ有数の文化都市としてミュンヘンを花開かせました。

王国の発展には功績を残したルートヴィヒ1世ですが、その治世は大きなスキャンダルによって幕を下ろすことになります。王が60歳の時に美貌の踊り子、ローラ・モンテスと出会い、(この出来事を映画化したのが、1955年に製作・公開された、マックス・オフュルス監督の『歴史は女で作られる』です。これも名作なので観ていただきたいですね。)その余りの溺愛ぶりから周囲の反発を呼んで退位を余儀なくされ、息子のマクシミリアンに王位を譲ることになりました。

1848年はヨーロッパでは革命の気運が吹き荒れた年です。フランスで起こった「2月革命」の余波がヨーロッパ諸国に広がり、ドイツではウィーンやベルリンなどで「3月革命」が発生し、世の中が大きく動き王権の存在自体が微妙になっていた時期でもありました。

1845年の8月、ルートヴィヒは父・マクシミリアンの皇太子時代にミュンヘン郊外の王家の夏の離宮ニュンフェンブルク城にて生まれます。ルートヴィヒが誕生したのは祖父のルートヴィヒ1世の誕生日と同じ8月25日。時刻も午前0時半と生まれた時間まで祖父と同じでした。喜んだルートヴィヒ1世のたっての願いで、祖父と同名の「ルートヴィヒ」という名前が与えられることになったのでした。

ルートヴィヒの母マリーは、プロイセン王の従妹に当たる美しい女性でした。マクシミリアンの北ドイツに留学中に見初められて17歳で結婚し、20歳でルートヴィヒを出産し、マクシミリアンが王位に就いた3年後、1848年には弟のオットーも誕生しています。

父の即位でルートヴィヒは次の王位継承者となります。弟とともに子守や養育係りに囲まれて幼年期は比較的穏やかな日々を過ごしたようですが、両親の愛にはあまり恵まれてはいなかったようですね。映画の中でもルートヴィヒと母との微妙な距離感が上手く表現されています。

父王マクシミリアン2世は学者肌の人物で、ストイックな性格でした。国王としての立場を重んじ、日々、務めを勤勉にこなし、忙しさから遊び盛りの子供たちの相手をすることは殆どなく、優しい言葉をかけることもなかったようです。そんな父の態度は多感な子供たちには冷淡にうつったようですね。父親は子供たちとって遠い存在でしかありませんでした。

母のマリーは、飾り気がなく家庭的な母親でしたが、ルートヴィヒの芸術を愛する心や夢想的な面を理解できる感性を持ち合わせていませんでした。母親からも拒絶されたと感じたルートヴィヒは母親に心から甘えるということができず、次第に殻に閉じこもるようになっていったのです。

愛して欲しい、理解して欲しいと思う一番身近な人たちから自分は疎まれていると感じてしまった子供時代から、後年のルートヴィヒの孤独な精神の歪みは少しずつ培われていったのではないでしょうか。

ルートヴィッヒの子供時代は、父マクシミリアン2世が荒れ城を改築したホーエンシュヴァンガウ城を好み、よく一家で滞在しました。豊かな緑と湖に囲まれたこの城は、白鳥の騎士ローエングリンや中世のゲルマン伝説などを題材にした壁画や白鳥にちなむ装飾で満ちており、読書と夢想の好きな多感な少年にはさながらおとぎの国にいるように思え、ルートヴィヒはいつしか白鳥の騎士に自分自身を重ね合わせ、中世への強い憧れの中で甘美な時を過ごすようになったのです。

当時、ドイツでは中世への憧れを一つの特色とするロマン主義の風潮がもてはやされていたので、青年ルートヴィヒが中世の伝説の世界にのめりこんでいったのも、ある意味では自然なことだったのでしょう。

ルートヴィヒがミュンヘンの宮廷歌劇場にて初めて歌劇「ローエングリン」を鑑賞したのは15歳の時でした。それは彼の生涯に大きな影響を与える作曲家リヒャルト・ワーグナーとの運命的な出会いでもありました。彼の作り出す壮大な物語の世界にルートヴィッヒは感動に胸を震わせ、はらはらと涙を流し、一瞬のうちに虜になるのでした。

1864年3月、ルートヴィヒの父マクリミリアン2世が急死し、ルートヴィヒは18歳でバイエルン国王として即位することになります。191cmのすらりとした長身で、凛々しい顔立ちの輝くばかりの若き国王・ルートヴィヒ2世の魅力に、バイエルンの民衆はたちまち魅了されました。しかし、18歳のルートヴィヒはミュンヘンの大学での学問を始めたばかりでしたが、予定された学業はやむなく中断され、学業後に計画されていた外国への修養旅行などもすべて実現しないまま王位に就くことになったため、教育は未完成に終わり、一人の人間としてもまだ未成熟なままでした。

しかし、王位についたルートヴィヒは、国王という任務にやる気をみせてはいましたが、この頃のルートヴィヒといえば、ワーグナーの世界に魅了され、寝てもさめてもワーグナーで頭は一杯でした。そんなルートヴィヒが王位についてすぐ指示したのは、敬愛するワーグナーを探し出し、バイエルンに招聘することでした。

このルートヴィヒの招きは、当時のワーグナーにとっては願ってもないことでした。ワーグナーは、ドレスデンで革命運動に参加して逮捕状が出ため亡命生活を送り、当時は追放処分は撤回されたていたものの、上演機会のない大作を書き続け、分不相応の贅沢をして多額の借金を抱えていたのです。

それに加え、フランツ・リストの娘で人妻のコジマとの不倫騒動で世の中を騒がせていました。コジマはワーグナーの推薦で宮廷指揮者になっていたハンス・フォン・ビューローの妻で、ワーグナーとは24歳も歳が離れていました。ワーグナーにもに別居中の妻がいて、いわゆる今流行りの(笑)ダブル不倫。到底許されぬこの2人の仲はミュンヘン中に知れ渡りスキャンダルになっていました。

偉大な音楽家だったにせよ、「過激な革命家」というイメージが浸透した、スキャンダルにまみれたワーグナーを国王自身が呼び寄せ破格の待遇を与えたのですから、周囲は驚きます。しかし、ワーグナーを心の底から敬愛するルートヴィヒ2世は、周りの心配をよそに、ワーグナーの膨大な借金を肩代わりし、破格の年金を与え、貴族の屋敷が立ち並ぶミュンヘン市内の一等地、ブリエンナー街に豪華な邸宅を与えるのです。

そして、ルートヴィヒ2世は、あまりの大作のため上演不可能だと言われていた「ニーベルングの指輪」のための大きな劇場の新設を提案し、ワーグナーのために音楽院を設立するなど、ワーグナーのためにあらゆる努力をしました。若き青年王は、自分の理想とするワーグナーの夢の世界を自分の手で実現させていくことに、無常の喜びを感じていたのでした。

当時は様々な非難もあったでしょうが、「ニーベルングの指輪」や「トリスタンとイゾルデ」はルートヴィヒ2世がいなければ完成、上演されることがなかった訳ですからね。この傑作オペラを現在観ることができるのは、ルートヴィヒ2世のおかげです。

しかし、ミュンヘンの市民は2代前のルートヴィヒ1世時代のローラ・モンテスの騒動がまだ記憶に残っていたこともあり、あまりに無分別な国王のワーグナーに対する過度な庇護は保守的なミュンヘンの人たちからの強い反発を受けます。

次第にワーグナーはルートヴィヒから金銭の援助を受けれるように政治にも口出しするようになり、政府の要人たちは危機感をつのらせ、政府の画策により、ワーグナーは1年あまりでミュンヘンから追放となりました。

ルートヴィヒが王位に就いた頃、ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まっていたのですが、その民族の統一をどの範囲でするかで意見が分かれていました。

「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」と呼ばれ対立していたのです。「大ドイツ主義」とは、ナポレオン失脚後のウィーン会議で誕生した「ドイツ連邦」を土台とし、その議長国であるオーストリアが旧神聖ローマ帝国の全域をドイツとして統合しようとした動きを言います。それに対する「小ドイツ主義」は、ドイツ民族以外の諸民族を多く含んだオーストリアを排除し、ドイツ民族だけで国家をつくろうとする動きです。

こうした緊迫した情勢の中でルートヴィヒは国王となったのですが、激しく争うプロイセンとオーストリアの中間に位置するバイエルンは中立策を取り、どちらを支持するのかはっきりとした態度を示さずにいました。バイエルンはルートヴィヒ1世の時代から芸術や文化の発展には力をいれてきましたが、軍事力はあまり重視せず、財政の倹約のために削減されるほどでした。そして、この国では半世紀も戦争はなく平和だったため、国民の大半は安穏とした暮らしに満足し、ドイツの覇権争いは他人事のように考えているところがありました。しかし、状況は緊迫し、曖昧な態度を取り続けることが難しくり、プロイセンか、オーストリアか早急に決断を下さなければならなくなりました。

バイエルンとオーストリアは古くから同じような文化圏にあり、バイエルンのヴィッテルスバッハ家とオーストリアのハプスブルク家とは姻戚関係も深く、両国は姉妹国のような関係だったため、1866年5月、議会はオーストリア側につくことを決定し、国王に開戦に備えての動員令への署名を求めました。
 
しかし、美だけを愛し、理想の世界に生きるルートヴィヒには、戦争という厳しい現実は耐え切れないものだったのです。署名はしたものの、王としての威厳も忘れ、哀れに取り乱し、退位して弟のオットーに王位を譲ると言い出してベルク城に引きこもってしまうのです。伝説の世界の英雄に憧れるルートヴィヒでしたが、現実の醜い争いごとには繊細な神経が耐えられないのでした。

1866年6月16日、プロイセンは宣戦布告を行なってホルシュタインのオーストリア統治地域を占領し、普墺戦争が始まりました。

戦争が始まると、ルートヴィヒは幼い頃から愛した場所のひとつシュタルンベルグ湖に浮かぶ薔薇島(ローゼンインゼル)に閉じこもりました。非常時に国王の姿が見えないことに周囲は慌てます。まだ若い国王とはいえ、「こういう時こそ毅然として立ち振る舞うのが君主たるものの務めであるのに…」と周りの者たちはルートヴィヒへの不信感を募らせてゆきます。

普墺戦争の結果、オーストリア主導の「ドイツ連邦 」は解消され、ドイツ統一におけるプロイセンの主導権は確たるものとなり、 バイエルンのルートヴィヒ2世は、ひとまず胸を撫で下ろすことはできたものの、数年後、再び国家間の厳しい戦いの中に引き込まれていくことになります。
                
ルートヴィヒは同性愛者として知られていますが、父親の厳格教育と母親の信仰の影響で、彼の女性観というものは極端に理想的なものだったようです。女性の肉体的な面に惹かれたりということは全くなく、清らかな「聖処女」のイメージを女性には求め、それを崇拝したのだそうです。

ほとんど女性と親しい交流はなかったルートヴィヒですが、たった一人だけ幼い頃から憧れていた女性がいました。ヴィッテルスバッハ家の傍系にあたるバイエルン公爵家のエリザベート(ミュージカルで有名ですよね)でした。ルートヴィヒより8歳年上のエリーザベトは、すでにハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ帝と結婚してオーストリア皇后となっていましたが、ルートヴィヒが姉のように慕い続け、生涯憧れ続けた唯一の女性でした。エリザベートの母であるルトヴィカがルートヴィッヒの祖父ルートヴィヒ1世と異母兄弟で、ルートヴィヒ本人ではなく父のマクシミリアン2世がエリザベートと従兄妹という関係なのですが、年が近いこともあってルートヴィヒ兄弟が幼い頃からエリザベートたち姉妹とは親しい間柄でした。

自由奔放で型にはまるのを嫌うエリザベートの性質は、父のマクシミリアン譲りと言われています。現実から逃避して自分だけの世界を愛したエリザベートは、超保守的なウィーンの宮廷にはなじめず、孤立した存在でした。それらはルートヴィヒにも共通して見られるものだったので、2人はお互いを理解し、共感し合える存在だったのでした。

自分の世界とワーグナーの世界にだけしか興味のないルートヴィヒは、女性にもほとんど関心を示さず、王族の義務である結婚にも消極的でしたが、エリザベートの妹ゾフィー・シャルロッテと結婚の意志を固めルートヴィヒ、22歳の誕生日に結婚式が行われる予定で準備が進められました。

祝賀会や舞踏会などが次々に催され、バイエルンの国中がお祝いムードに沸きましたが、一方でその後の二人の仲は進展を見せません。ルートヴィヒはゾフィーを一人の女性として愛していたのではなく、憧れの人エリーザベトの面影を求めるとともに、お互いが好きなワーグナーについて心行くまで語り合える相手として必要としていただけのようでした。婚約者として共に写った写真はよそよそしく、たまにゾフィーのもとを訪れるルートヴィヒの態度は非常にあっさりしたものだったようです。

結婚の日が近づき現実が迫ってくると、ルートヴィヒにはその重圧が耐えられないほど重いものになってきます。ルートヴィヒが生身の女性を愛し、妻として一人の女性と向き合うということは到底、無理なのでした。 

その後ルートヴィヒは精神状態が不安定になり、「結婚するなら湖に身を投げて死んでしまいたい」口走るようになったとか。

ついに結婚式の数日前、式を延期すると発表します。気まぐれな国王のご成婚延期にはバイエルンの国民も疑問を抱き、ゾフィの両親も不誠実なルートヴィヒの態度に苛立ちを隠せませんでした。大事な娘の将来を考える親としては怒りを通り越して忍耐の限界に達していました。ルートヴィヒが再度の延期の意向を示すと、ついにゾフィ・シャルロッテの父バイエルン公は式を即急に挙行するか、婚約を解消するようにと要求を突きつけます。

優柔不断だったルートヴィヒは、ついにゾフィ宛に婚約を破棄する手紙を書きました。淡々と綴られたその別れの文面にゾフィーは強いショックを受け、深い心の傷を負ったのは言うまでもありません。ゾフィの両親もまた強い屈辱感を味わいましたが、娘の今後を思うと安堵の気持ちも入り混じった複雑なものだったようですが、それまでルートヴィヒに理解を示していたゾフィの姉のエリーザベト皇后もまた、今回ばかりは怒りを隠しきれなかったようです。

1870年、普仏戦争で弟オットー1世は精神に異常をきたしてしまいます。その後、ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界にのめり込み、昼夜が逆転した生活を送るようになってゆきます。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたと伝えられています。

危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年6月12日に彼を逮捕し、ルートヴィヒはベルク城に送られ軟禁されます。代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子でした。ルートヴィヒは翌日の6月13日、大雨の中、散歩がしたいと言い、医師のフォン・グッデンと共に外出しますが、シュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見されたのです。

その死の詳細については未だ謎のままでと言われています。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べています。 

ルートヴィヒ2世とはどんな人物だったのか少し説明しますとか言ってこんなに長くなってしまいました(笑)。

仕方ないですね。映画も長いし(笑)。

『ルートヴィヒ Ludwig』
1972年 イタリア・西ドイツ・フランス合作   
監督:ルキーノ・ヴィスコンティ
製作総指揮:ロバート・ゴードン・エドワーズ
脚本:ルキーノ・ヴィスコンティ エンリコ・メディオーリ スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影:アルマンド・ナンヌッツィ
音楽:フランコ・マンニー

〈出演〉
ヘルムート・バーガー
ロミー・シュナイダー
トレヴァー・ハワード
シルヴァーナ・マンガーノ
アドリアーナ・アスティ
ソニア・ペトローヴァ
ジョン・モルダー=ブラウン
マルク・ポレル
ゲルト・フレーベ

『ルートヴィヒ』は『地獄に堕ちた勇者ども(1969年)』『ベニスに死す(1971年)』と並ぶ「ドイツ三部作」の最終作で、バイエルン王ルートヴィヒ2世の即位から死までを上に書いたように、史実に沿った形で描いた歴史大作です。中期以降のヴィスコンティ作品に見られる絢爛豪華な貴族趣味を極限まで高めた作品と言われています。

孤独を好むルートヴィヒ2世の理知と狂気、独善的な芸術家ワーグナーとの不安定な繋がりや、従姉であるエリーザベトへの思慕やホモセクシュアルを含めた耽美的な愛憎劇も織り込まれた非常に重厚な作品となっています。

撮影は長期に亘り、途中ヴィスコンティ監督は病に倒れるのですが、ハードなリハビリを乗り越え、奇跡の復帰を遂げて完成させたと言われています。ただし左半身の後遺症は生涯残ることとなってしまったのです。まさに執念で作られたこの映画は、当初およそ4時間もの作品でしたが、配給会社から「長すぎる」とのクレームを付けられ(山猫もそうでしたね)、止む無くヴィスコンティ監督自身の手によって約3時間(『ルードウィヒ/神々の黄昏』 の邦題で公開されました)に、さらに第三者によって約140分に短縮させられてしまったのです。

1980年にはヴェネツィア国際映画祭において、ヴィスコンティ監督の当初の意図に限りなく近いとされる4時間版が初めて公開され、さらに1995年には、劣化したオリジナル・ネガの修復が行われ、2006年に 『ルートヴィヒ【完全復元版】』 と題して、ヴィスコンティ監督生誕百年祭特集として公開されました。今回、公開されたのはこの時、修復されたものを更にデジタルに修復したものなのでしょうね。

ルートヴィヒ2世は精神病を理由に廃位されたことになっていて「狂王」と呼ばれます。しかし実情はバイエルンの経済が破綻寸前の状態にあったことがその真の理由だったと考えられているのです。バイエルンは、1866年の普墺戦争におけるプロイセンとの講和条約のために多額の賠償金の支払義務があり、さらにルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設や政情不安などにより、経済が混乱状態に陥っていたことを危惧したバイエルン首相ヨハン・フォン・ルッツらが、グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、禁治産者(心神喪失の常況にある者)にすることを決定したということになっています。この点に関しては色々な説があるようですが、少なくとも4人の医師が実際にルートヴィヒを鑑定した記録はなく、証言者の信頼性に乏しい証言や観察をもとに診断書を作成したことは事実であるといわれているのです。

ヴィスコンティ監督も決してルートヴィヒを狂った男とは描いていません。哀れとも思っていない。監督自身のこうであろうという押し付けがましい解釈もありません。ただ淡々とルートヴィヒという男の人生はこうであったと史実に忠実に映像化しているように僕は感じています。

当時の王族や貴族は近親者同士の結婚が多かったですし、ルートヴィヒの弟も精神に異常を来したということなので何か血筋的なものがあったのかも知れませんが、僕はルートヴィヒを見ていると、大好きなものは手元に置いておきたい、大好きな場所でいつまでも遊んでいたいという純粋な子供のような思いが周りから見れば異常とも取れる行動やお城の建築として現れてしまったのではと感じます。

国王ですからお金はあるんですよね~(笑)。

普仏戦争のあいだにも工事が進んでいた、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルとされるノイシュヴァンシュタイン城、電気仕掛けの人工洞窟にローレライを再現してみせたリンダーホフ城、ルートヴィヒ2世が崇拝していたルイ14世への記念碑として建てたヘーレンキームゼー城。ルートヴィヒが建てたこの3つのお城は今では観光名所として世界的に有名ですよね。

映画の中にも登場しますが、ノイシュヴァンシュタイン城は、14人の彫刻家が4年を費やしたというベットや、「王座の間」は2階と3階のすべてがあてられ、十二使徒伝説、聖杯神話、ローエングリン物語のすべてが所狭しと描かれて、200万個の石材が動員されています。「歌手の間」には600本の燭台シャンデリアが輝いて、天井の黄道十二宮を眩しく照らしています。全館、温風暖房で、当時は珍しい水道を引き、暖炉は回転してホットプレートとなり、食事は昇降機によってテーブルせり上がる仕掛けになっていたのです。

そういうところを見ても頽廃的とかデカダンスというよりは、ルートヴィヒは大好きなワーグナーのオペラの世界を再現して、テーマパークのようなその中に生きていたいという子供っぽい想いを形にしていたのではと思いました。

ルキーノ・ヴィスコンティ監督はこのルートヴィヒの何に魅かれて映画化しようと思ったのでしょうか…。フランスの太陽王と呼ばれたルイ14世に憧れ、自分も同じ国王として生まれたのに、ルイ14世のような偉大な王になるには自分には何かがかけていると自覚している弱い心を持った、どこか病んだ青年の孤独と絶望、もがいても、あがいても従姉妹のエリザペート以外、誰も理解してくれない環境の中で次第に追い詰められてゆく魂のさすらい…。

僕は今回、久しぶりに大きなスクリーンで再見して、強くそう感じたのです。現実にうまく対峙できず、戦う前から敗北しているような男の悲しさが伝わります。

ヴィスコンティ監督もそういうところに共感したのかなと僕は勝手に思っています(笑)。

ルートヴィヒは彼なりに必死に生きていたと思うし、滑稽に見えたとしても笑うことはできないと僕は思います。

僕はヴィスコンティ監督の作品を観ると、こういう歴史を持つヨーロッパという土地に私たちは生まれ、生きているのだという誇りを感じるんです。

ルートヴィヒを演じたヘルムート・バーガーは見事に演じきってますよね~。ルートヴィヒ撮影時にはヴィスコンティ監督に最も愛されていた男性なんです。監督のヘルムート・バーガーの俳優としてのキャリアに是非、輝かしい代表作を作ってあげたいという情熱がこの作品を完成させたとも言われています。

ヘルムート・バーガーは僕の大好きな俳優の一人です。
◎地獄に堕ちた勇者ども La Caduta degli dei (1969年)
◎ドリアン・グレイ/美しき肖像 The Secret of Dorian Gray (1970年)
◎悲しみの青春 Il Giardino dei Finci Contini (1971年)
◎家族の肖像 Conversation Piece (1974)
素敵な作品ばかりです。
サロン・キティー Salon Kitty (1976年)のようなどうしちゃったの?みたいな作品もありますけどね(笑)。

エリザベートを演じたロミー・シュナイダーも大好きな女優の一人です。
ルートヴィヒが本当に愛した、ただ一人の女性、エリザペート皇后を、衣装は黒のドレスばかりなのに、溢れんばかりの華やかさと美しさで余裕たっぷりに演じていました。
◎暗殺者のメロディ The Assassination of Trotsky(1972年)
◎離愁 Le Train(1973年)
◎地獄の貴婦人 Le Trio infernal(1974年)
◎追想 Le Vieux fusil(1975年)
◎華麗なる相続人 Bloodline(1979年)
僕が大好きなロミー・シュナイダーの出演作をあげてみました。

ラストシーンの虫歯で真っ黒になった歯をむき出しにしたルートヴィヒの死顔を写すカメラにはヴィスコンティ監督の作品に賭ける執念を感じます。

8月にこの『ルートヴィヒ』と『山猫』のブルーレイが発売されるそうです。もちろん買いますよ!ヴィスコンティ監督が残してくれた、美しい映像遺産にいつでも会えるように。

いい作品は観るたびに新しい発見がありますね。


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