実家から亡き祖父が撮っていた80年代と思われる通天閣の写真が見つかりました。
 せっかくなので通天閣に繋がるこの近辺の展望台(塔・閣)の歴史でも語りつつ紹介したいと思います。

 日本橋界隈の展望台の始まりはオタロードと南海電鉄の間にかつて建っていた木造5階建ての展望台・通称「ミナミの五階」。
 現在では五階百貨店の名前のルーツとなっていることで有名です。
 正式名称を「眺望閣(ちょうぼうかく)」。
 今から127年前の明治21年(1888年)に建てられました。

眺望閣写真(商店街パネル)
<日本橋商店会の一角に貼られていた「眺望閣」の写真。 2014年12月撮影>

 この眺望閣については過去記事「-「五階・眺望閣」〜オタロード付近にあった遊園地「有宝地」〜-」に詳しく書いていますので、ご興味ある方はご参照くださいませ^^。

 それから15年が経った明治36年(1903年)に今の新世界や天王寺公園がある場所で万博のような一大イベント「第五回内国勧業博覧会」が開催されます。

 「第五回内国勧業博覧会」については過去記事「-平屋と軍艦アパート2〜でんでんタウン界隈の歴史〜-」で図解入りで触れていますので、こちらもご興味ある方はご参照くださいませ^^。2回目(笑)。

 そのイベントの目玉のひとつとして建てられた全高45mの灯台のような木造展望台を「望遠楼」、通称「大林高塔」といいます。
 なんと大阪でエレベーターを初めて設置した建物がこの「大林高塔」でした。

 大林高塔の写真国立国会図書館蔵

 建っていた位置は今の天王寺公園にある、2人の男性が仰け反るように座っている像がある噴水あたりではないかと思います。

 実は前述の眺望閣はこの大林高塔が建っていた明治36年の翌年まで残っていて、大林高塔から写した写真の中に眺望閣が写り込んでいるのを見つけました。

大林高塔から見た眺望閣
<大林高塔から北北西に向けて写された写真。 国立国会図書館蔵

大林高塔から見た眺望閣拡大
<その写真の中央やや右をズーム。眺望閣が写っています。>

 眺望閣の右側の城や下の建物は今の新世界に建っていた博覧会用の建物で、眺望閣よりずっと手前にある建物です。眺望閣付近には他に高い建物が見当たらず、いかに眺望閣の存在感が大きかったかを物語っていますね。この写真から1年後、眺望閣は老朽化のため解体されることになります。

 大林高塔も博覧会のために作られた塔なので博覧会終了とともに姿を消します。

 こうして日本橋・新世界界隈には展望台がなくなってしまうのですが、それでは寂しいと思ったのか博覧会後の一部の敷地には「新世界ルナパーク」という遊園地が設置され、その新世界ルナパークの入り口とロープウェイで繋がれた巨大な塔が明治45年(1912年)に誕生します。

 それがパリのエッフェル塔と凱旋門をモデルに2つを合体させた外観を持つ全高75mの展望台、当時東洋一の高さを誇った初代「通天閣」です。

Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai_Luna_Park
<初代「通天閣」。 wikipediaより>

Original_Tsutenkaku_and_Shinsekai_aerial_tramway_2
<初代「通天閣」と遊園地「新世界ルナパーク」がロープウェイ(旅客用としては日本初)で繋がっていました。 wikipediaより>

 初代「通天閣」が建っていた場所は今の通天閣の少し南。
 「眺望閣」や「大林高塔」が木造だったのに対し鉄製の塔でした。
 「大林高塔」では外国製のエレベーターが設置されていましたが、初代「通天閣」では日本初の国産エレベーターが設置されました。

 鉄、電飾、初の国産エレベーターと、これからの大大阪時代(だいおおさかじだい)を迎えるに相応しい、まさに大阪のシンボルだったそうです。





 大正12年(1923年)には新世界ルナパークが経営不振により閉園となります。
 初代通天閣は昭和の太平洋戦争まで続きますが、戦争中の昭和18年(1943年)に火災により損傷してしまい、軍への鉄材供出のため解体されることになりました。例え火災が起きなかったとしても、爆撃の標的にされやすいとの理由から解体の運命は免れなかったようですね。

 そして戦後になり、次はいよいよ今現在絶賛営業中の2代目「通天閣」の登場なのですが、思ったよりも長くなったのでまた次回に^^;