東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

「日米対立の道」 東京書籍版は、日本だけが悪役で、アメリカも他の国も登場しない一人舞台史観

2017-10-24 | 日本の歴史
国際派日本人養成講座より転載

■1.「石油やゴムなどの資源を獲得しようとした」

日中戦争から抜け出せないまま、日米関係は悪化していく。東京書籍(東書)版は、「日本の南進」の項で、次のように描く。

イギリスやフランスなどがドイツとの戦争で劣勢におちいると、日中戦争が長期化した日本は,近衛内閣の下,これらの国々の植民地がある東南アジアに武力による南進を始めました。援蒋ルートを断ち切るとともに,石油やゴムなどの資源を獲得しようとしたのです。

育鵬社版の描く世界は全く別だ。

日中戦争が始まってから3か月後の1937(昭和12)年10月,アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは議会での演説で,無法な国を世界から隔離すべきだと,日本を非難しました。

わが国は石油などの重要な物資をアメリカからの輸入にたよっていましたが,アメリカは, 1939(昭和14)年に日米通商航海条約の廃棄を通告し,対日輸出制限を強化しました。

日本の南進、仏領インドシナ(今日のベトナム)北部への進駐は1940(昭和15)年9月。援蒋ルート、すなわち米英などからの蒋介石支援物資が北ベトナム経由で運ばれていたので、それを断ち切ろうとしたのは事実である。しかし、アメリカはその前から日米通商航海条約の廃棄を通告し,対日輸出制限を強化していたのである。

東書版は日本は南進によって「石油やゴムなどの資源を獲得しようとした」と書くが、このアメリカの対日輸出制限を書かないので、なぜここで急に資源獲得の話が出てくるのか、中学生たちは分からないだろう。この書き方では、英仏がドイツとの戦いで劣勢に陥った隙を狙って、南方の資源を盗もうとしたとしか読めない。

■2.ルーズベルトの異様な敵意

ルーズベルト大統領の「隔離」演説は、この人物が日本に対して抱いていた異様な敵意をよく表している。米国国務省が作成した演説原案には「隔離」云々の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身で挿入したものである。

この演説は米国内で激しい反発を引き起こし、6つの平和主義団体が、大統領は米国民を世界大戦の道に連れて行こうとしているとの声明を出した。米国労働総同盟や議員三分の二も反対の声をあげた。

しかし、国内の反発にも関わらず、ルーズベルトは着々と日本を追い込んでいく。日米通商航海条約は、もともと幕末の1858(安政5)年に結ばれた日米修好通商条約が改定を重ねたものである。いわば80年以上に渡って日米友好の基盤となった条約を破棄して、いつでも合法的に対日貿易を制限、あるいは停止できるようにしたのである。

当時、日本にとって、アメリカは原油、精銅、屑鉄、機械類などの主要供給先であった。しかも、アメリカにとっても、日本は英国、カナダに次ぐ輸出先で、日本への輸出量はシナを含む全アジアへの輸出量よりも多かった。

ルーズベルトの日本への敵意は、国民の意見も経済合理性も長年の友好関係も無視した異様なものであった。

■3.日本が着々とアジア侵略?

育鵬社版の記述と比べて気がつくのは、東書版では日本の動きだけを追って、一向にアメリカその他の役者が登場しない事だ。この一面的な記述ぶりは、この後も続く。

日本は1940(昭和15)年9月,フランス領インドシナの北部に軍を進め,次いで日独伊三国同盟を結びました。さらに,1941年4月に日ソ中立条約を結び,日本の北方の安全を確保したうえで同年7月にフランス領インドシナの南部へも軍を進めました。こうした動きと合わせて, 日本は「大東亜共栄圏」の建設を唱えました。それは, 日本の指導の下,欧米の植民地支配を打破し,アジアの民族だけで繁栄しようという主張でした。

フランス領インドシナ北部への進駐、日独伊三国同盟、日ソ中立条約、仏領インドシナ南部への進駐と、日本が着々とアジア侵略を進めたように描かれている。

その目的としては、日本の指導の下、「大東亜共栄圏」を作って、「アジアの民族だけで繁栄しよう」としたと言う。「欧米の植民地支配を打破」しようとしたのは事実だが、「アジアの民族だけで繁栄しよう」としたと大胆に断言した根拠は書かれていない。

1943(昭和18)年11月6日、アジアの独立運動のリーダーたちを東京に集めた大東亜会議では、大東亜宣言を採択し、そこには「大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ・・・以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」との条項もあった。それが単なる建前であって、本音は違うというなら、そう断定できるだけの根拠を示すべきである。

外交も戦争も相手のあることであって、その作用、反作用が歴史を織りなしていく。アメリカその他の国の動きは描かずに、日本だけが侵略に突っ走ったというのでは真っ当な歴史記述にはなりえない。

■4.「四か国協商」の目論み

このあたりを育鵬社版は次のように記述する。

ドイツの快進鑿に目をうばわれた日本政府は,1940(昭和15)年,日独伊三国同盟の締結に踏み切りました。さらに米英に圧力をかけて讓歩させるため,ソ連を含めての四か国協商を結ぼうとして,日ソ中立条約を結びました。しかし、ドイツが日本に事前の協議もなく,不可侵条約を破ってソ連に攻めこんだことでその期待は裏切られました。また,三国同盟の最大の敵国はイギリスだったため,すでにイギリスと事実上の同盟関係にあったアメリカとわが国の関係は決定的に悪化しました。

東書版では日ソ中立条約は「日本の北方の安全を確保したうえで」南進するために結んだように書いているが、育鵬社版では「ソ連を含めての四か国協商を結ぼうとして」結んだものとしている。そして、その目的は「米英に圧力をかけて譲歩させるため」としている。実際に、当時の近衛文麿首相は手記にこう記している。

当時独ソは親善関係にあり、欧洲の殆ど全部はドイツの掌握に帰し、英国は窮境にあり、米国は未だ参戦せず、かかる状勢下で日独ソ連携によって英米に対する我国の地歩を強化することは支那事変を解決し、対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。

しかし、そんな目論みも、独ソ開戦により吹き飛ばされる。日本は着々と主体的にアジア侵略の道を歩んだのではなく、複雑奇怪な国際政治に翻弄されていたのである。

■5.経済封鎖と仏印進駐

その後の日米交渉に関して、東書版は次のように記述する。

日本が侵略的な行動を取る中で,日米関係は悪化していきました。近衛内閣は,アメリカとの戦争をさけるために1941年4月から日米交渉を行いましたが,軍部の要求などもあって,南進を止めませんでした。フランス領インドシナの南部へ軍を進めた日本に対して,アメリカは石油などの輸出禁止にふみ切り,イギリスやオランダも同調しました。戦争に不可欠な石油を断たれた日本では,このように日本を経済的に封鎖する「ABCD包囲陣」を打ち破るには早期に開戦するしかないという主張が高まりました。日米交渉の席でアメリカが,中国とフランス領インドシナからの全面撤兵などを要求すると,近衛内閣の次に成立した東条英機内閣と軍部は,アメリカとの戦争を最終的に決定しました。

「近衛内閣は・・・日米交渉を行いましたが,軍部の要求などもあって,南進を止めませんでした」という一文では、いかにも交渉のポーズを見せつつ、実は侵略を続けた、と言いたいようである。

育鵬社版は、南部仏印進駐について、こう説明する。

当時のわが国は,使用する石油の多くをアメリカから輸入し一部をオランダ領東インド(現在のインドネシア)から輸入していました。しかし,三国同盟によってオランダとの関係が悪化し,石油・ゴムなど重要物資のインドネシアからの輸入が困難になりました。そこで日本政府は,東南アジア産出の重要物資を確保するため, フランス領インドシナ南部に軍を進めました(南部仏印進駐)。

すなわち、先にABCD包囲陣による経済封鎖があり、追い詰められた日本が資源確保のために、南部仏印に進駐したのである。東書版では、日本の「南進」を強調するあまり、原因と結果が逆になっている。

ちなみに仏印進駐はフランスの主権を尊重し、フランス政府との合意に基づいている。これを侵略というなら、同じ年に英国やアメリカがドイツ侵攻の予防として、アイスランドとグリーンランドに進駐したのも同じ侵略であろう。ましてやソ連によるポーランド、バルト三国、フィンランドへの侵攻は、文句の言い様のない侵略である。

■6.日本との戦争を決意していたルーズベルト

こうしてわが国は、袋小路に追い込まれていく。育鵬社版の記述では:

これに対しアメリカは, 国内にある日本の資産を差しおさえるとともに石油の対日輸出全面禁止に踏み切り,日米の対立は決定的なものになりました。また,アメリカは,イギリス,中国,オランダとともにわが国を経済的に圧迫し,封じこめを強化しました。首相の近衛文麿は,アメリカ大統領ルーズベルトとの会談を提案しましたが実現せず,開戦に消極的だった海軍も石油問題に危機感を強めていきました。

「経済封鎖は戦争行為である」とはパリ不戦条約批准の際のケロッグ米国務長官の議会での発言である。ルーズベルトは部下からも再三、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていたが、聞き入れなかった。ルーズベルトは当初から、日本との戦争を決意しており、この点はアメリカ国内でも批判されている。

ルーズベルトの前の大統領であったハーバート・フーバーは、終戦後、日本を占領中のマッカーサーを訪れて対談した。そこでは「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」と私(フーバー)がいうとマッカーサーは同意した」という会話がなされている。[b]

また共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員は、戦後に著した著書で、「フランクリン・ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って、ついに米国を日本との戦争にまきこむことに成功した」と書いている。

■7.ルーズベルト政権を操ったソ連

今日では、当時の秘密文書公開によって、ルーズベルト政権には多くのソ連工作員が紛れ込んでいた事が明らかになっている。

たとえば、真珠湾攻撃の7ヶ月前に日本爆撃計画が立案され、ルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた。この計画の立案者がロークリン・カリー大統領補佐官で、彼がソ連と極秘情報のやりとりをしていたことは、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。

また日本政府に開戦を決意させた最後通牒ハル・ノートは、財務次官ハリー・デクスター・ホワイトの手になるもので、これもソ連の指示に従ったものである事が明らかになっている。

前号では、スターリンの謀略で、蒋介石政権と日本が日中戦争に引きずりこまれた事を示した。そして、近衛政権の近くに尾崎秀実などソ連に通じた工作員がいて、日本の対シナ強攻策を煽っていた事実を指摘した。そのスターリンの魔の手が、ルーズベルトを操って、日本を戦争に追い込んでいったのである。

アメリカは日本との戦争には勝ったが、ソ連が北朝鮮、シナから東ヨーロッパ諸国まで共産圏に収め、アメリカ自身は何一つ得る所がなかった。この結果を見れば、まさに天才スターリンの一人勝ちであったことが分かる。

■8.一人舞台史観では歴史教育にならない

本稿で述べたスターリンの陰謀説は、近年公開された機密文書などに基づき、アメリカでの歴史見直しが進んでいる段階であって、定説として確立するまでには、もうしばらくはかかるであろう。

東書版の記述は占領軍に押しつけられた60年前の自虐史観そのものだが、日本だけを単独の悪役にすることで、世界各国の実情や思惑を無視した「一人舞台史観」となってしまっている。先にも述べたように、いろいろな国々の作用、反作用が歴史を織りなし、そこでの失敗や成功を学ぶことが歴史教育の眼目である。日本だけが悪玉の一人舞台史観では真の歴史教育にならない。

それはちょうど、日本国憲法前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのと同じ、世界各国のそれぞれの実情も思惑も無視した「お花畑」世界観と同じなのである。

そんな歴史教育では、様々な国が入り乱れる複雑な国際社会の中で生き抜いていく国際派日本人は育たない。

(文責 伊勢雅臣)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿