東アジア歴史文化研究会

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(維新に翻弄された徳川の殿様たち① 安藤 優一郎)御三家筆頭の尾張藩が新政府に寝返った理由

2018-03-21 | 日本の歴史
2018年3月19日

高須4兄弟肖像。向かって右から、徳川慶勝・ 徳川(一橋)茂栄・松平容保・松平定敬(複製/原資料行基寺蔵) 海津市歴史民俗資料館提供

明治維新から150年が経つ。NHKの大河ドラマで西郷隆盛が取り上げられるなど、薩摩・長州の側から維新を描く番組・特集が目立つ。しかし、負けた側である徳川方にも歴史がある。

会津の松平容保は最後まで将軍家に尽くした悲劇の宰相として有名。その弟である松平定敬(桑名藩主)も容保と行動をともにした。それゆえ、桑名藩を飛び出すことになる。

一方、彼らの実の兄である徳川慶勝(尾張藩主)は藩内の親幕派を抑え、新政府につく。兄弟ではないが、越前・福井の松平春嶽もキーパーソン。当初は、最後の将軍・徳川慶喜も参加する“連立政権”の実現を図るが頓挫。その後は新政府に人材を供給した。

維新に翻弄された、尾張・会津・桑名の3兄弟と、春嶽の歴史をひもとく。現代のビジネスに通じる要素がいくつもある。
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幕末動乱の中、西郷隆盛を信頼した尾張藩主徳川慶勝

明治維新とは、徳川家中心の幕府から薩摩・長州藩を中核とする明治政府への政権交代劇であったが、維新を境に徳川家が完全に排除されたわけではない。排除された徳川一門もいたが、明治政府入りした徳川一門もいた。徳川一門が分裂して一枚岩になれなかったことが、維新が実現できた理由の一つでもあった。

一口に徳川一門の大名(親藩大名)と言っても、徳川姓を名乗ることが許された御三家・御三卿から、藩主が松平姓を名乗る会津藩、福井藩まで様々だ。それぞれ、将軍職を継いだ徳川宗家との関係は一筋縄ではいかなかった。各大名家の複雑なお家事情も背景にあった。葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、本社と系列会社との関係は必ずしも良好ではなかったのである。

そこで台風の目となったのが、尾張藩徳川家や福井藩松平家だった。こうした徳川家内部の足並みの乱れを突く形で、薩摩・長州藩は徳川一門の尾張藩や福井藩を引き入れて明治新政府を樹立し、さらに戊辰戦争を経ることで維新回天を実現する。

本連載では明治維新150年の節目の年に際し、維新の過程で翻弄された徳川一門の殿様4名に注目する。尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、福井藩主松平春嶽の4名である。

将軍家以外の徳川家は激動の時代をどう生きたのか。維新を境に敵味方に分かれた4名の殿様の生き様を追うことで、徳川一門の殿様からみた明治維新の知られざる実情に迫る。

冷戦状態だった幕府と尾張藩

初回は尾張藩主徳川慶勝を取り上げる。慶勝は文政7年(1824)の生まれで、後に部下となる西郷隆盛よりも3才年上であった。

尾張藩の石高は62万石で、戦国の雄だった加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家にこそ及ばないが、家格は徳川宗家(将軍家)に次いだ。徳川宗家に継嗣がいない時は、ナンバー2の大名として将軍の座に最も近い立場にあったが、尾張藩主が将軍の座に就くことは一度もなかった。

6代将軍徳川家宣がいまわの時、尾張藩主の吉通が継嗣に擬せられたことはあったが、家宣の嫡男家継がわずか4才で将軍の座を継いだことで、その機会を失う。7代将軍家継が8才で夭折した時も、紀州藩主の吉宗に8代将軍の座を奪われた。

家格では尾張藩の次に位置した紀州藩から将軍職を継いだ吉宗に対し、その後尾張藩主となった宗春は御三家筆頭としてのライバル心を剥き出しにするような政治を行う。質素倹約を旨とする吉宗のデフレ路線に対し、尾張藩主の宗春は規制緩和による積極経済の路線で対抗した。そのため、不景気に苦しむ江戸城下とは対照的に名古屋城下は大いに賑わう。

しかし、こうした宗春の施政は吉宗から目を付けられざるを得ない。隠居・謹慎を命じられ、藩主の座を追われることになった。筆頭の系列会社のトップ人事にグループの総帥が介入した格好だ。おのずから、尾張藩では紀州藩が牛耳る幕府への反発が高まる。

そして、尾張藩に跡継ぎがいなくなると、寛政10年(1798)に徳川宗家から養子を送り込まれてしまう。尾張藩には「御連枝」と称された分家の美濃高須藩松平家(3万石)があり、継嗣がいない場合は高須藩から養子に入るのが慣例だったが、幕府は高須藩からの相続を認めず、吉宗の曾孫にあたる11代将軍家斉の甥斉朝を養子に送り込んだ。

斉朝が隠居した後も、三代続けて家斉の子や甥が藩主の座に就くが、いずれも吉宗の血統であるから、みな紀州藩出身ということになる。ライバル紀州藩の血統を引く者を主君として仰ぐことへの不満が尾張藩内では募っていく。自前の候補がいるにも拘らず、ライバルが牛耳る本社から社長を送り込まれたことへの反発は抑えようがなかった。

尾張藩待望の藩主徳川慶勝

当時、分家の高須藩主は松平義建という人物で、子だくさんであった。後述するとおり、幕末史で重要な役割を演じる「高須四兄弟」とは義建の子供たちのことである。

尾張藩では幕府に対抗して、義建の次男慶恕を藩主に迎えようという動きが既にみられた。慶恕は高須四兄弟では長兄にあたる。幕府はその動きを抑え込み、徳川宗家から養子を送り込み続ける。何度も養子を押し付けてきた幕府への不満は爆発寸前となるが、ようやく嘉永2年(1849)に慶勝が藩主として迎えられた。約半世紀ぶりに、尾張藩は自前の候補を社長の座に据えることができた。

幕末に尾張藩主となった慶恕は藩政につとめるかたわら、国事多難な折柄、幕府の政治にも積極的に関与する。ついには水戸藩の前藩主斉昭とともに、大老井伊直弼の政治責任を追及したが、その反撃を受けて隠居・謹慎に追い込まれた。安政5年(1858)、世に言う安政の大獄である。藩主の座は高須四兄弟で次弟にあたる茂徳が継いだ。

尾張藩主としては、宗春以来の強制隠居だった。藩内には衝撃が走り、幕府への反発がさらに強まる。そうした事情は斉昭や家老が処罰された水戸藩も同じであり、脱藩した水戸藩士たちは江戸城桜田門外で井伊を討ち果たす。幕府の権威は地に堕ちた。

桜田門外の変の後、慶恕は隠居を解かれる。その折慶勝と改名した上で、政治活動を再開させた。文久3年(1863)に息子の義宜が藩主となると、後見役として藩の実権を再び握る。

翌元治元年(1864)7月、長州藩が京都に攻め上り戦争(禁門の変)が起きる。敗れた長州藩は御所に向けて発砲した廉で朝敵に転落し、諸藩から構成される征長軍が組織された。長州征伐の開始だ。その総督に就任したのが慶勝であった。

幕府は長州藩を徹底的に追い詰めることでその力を天下に見せつけ、幕府権威の復活を目論んだが、慶勝の考えは違っていた。長州征伐を断行することで、国内が内戦状態に陥ることを懸念していたのである。その混乱に乗じて、欧米列強が日本を侵略しないとも限らない。征長軍参謀を勤めることになった薩摩藩士西郷隆盛も同じ考えだった。

西郷は長州藩に寛大な処置を取ることで、不戦のまま事態の収拾をはかることを慶勝に提案し、その了解を得る。自ら敵地に乗り込み、長州藩を帰順させることに成功した。征長軍は解兵となり、第一次長州征伐は終った。

しかし、慶勝が西郷の勧めを受けて寛大な処置を施したことに、幕府は大いに不満だった。最後の将軍となる同じ徳川一門の一橋慶喜などは「芋に酔った」と批判している。芋とは薩摩藩(西郷)のことで、慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃したというわけだ。

明治政府の一翼を担った尾張藩

それから3年後の慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は大政奉還に踏み切り、幕府は消滅する。その後、薩摩藩が主導する形で天皇をトップとする明治新政府が樹立されたが、徳川一門は分断された。慶喜が新政権から排除される一方、慶勝と福井前藩主松平春嶽を政府入りさせたのである。

これに反発した慶勝の弟にあたる高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、慶喜を奉じて新政府と開戦する。慶応4年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いである。だが、慶喜と両藩は戦いに敗れて朝敵に転落し、慶勝と容保・定敬は兄弟で敵味方に分かれた。江戸中期以降、幕府と尾張藩が冷戦状態にあったことの必然的な結果でもあった。

しかし、尾張藩内には幕府に反発する藩士がいる一方で、幕府に殉じるべきと主張する藩士も少なくなかった。このままでは路線対立が起き、内部抗争が起きるのは時間の問題だった。藩の分裂の危機が迫っていた。

明治政府からも踏絵を迫られた慶勝は京都から名古屋に急行し、幕府寄りの立場を取る藩士たちを切腹などの断罪に処した。これは「青松葉事件」と呼ばれている。

家臣たちに犠牲を強いることで藩内の一本化に成功した慶勝は政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走する。東海道や中山道沿いの諸藩をして明治政府に帰順させることにも成功した。その一方で、敵となった弟たちの助命にも力を尽くした。

その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たさなければならない慶勝の苦悩があった。尾張藩に限ることではないが、尾張藩主と徳川一門の立場を両立させることの難しさが滲み出ている。

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)氏
歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。

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