日田はいわば北九州の交通の要所であり、古代ここに中心的な都市があったとしても不思議はありません。

ここに卑弥呼の時代 三世紀~四世紀のものと思われる遺跡があります。

『小迫辻原遺跡』
 遺跡は標高約120mの通称辻原の台地上にあり、これまでに10年間におよぶ発掘調査で旧石器時代から近世までの遺構や遺物が多数出土している。
 なかでも台地の東側では東西に並ぶ古墳時代前期(4世紀)の三基の居館跡が発見されている。いずれも濠を方形に巡らせ、その内側に柵状の施設や建物を計画的に配置している。各居館跡の規模は、1号が一辺約47m、2号が一辺約38m、3号が一辺約20mである。
 また、台地の西側には居館跡と前後する時期の三基の環濠集落が存在し、台地の下にある湧水地に近い場所につくられている。環濠は形を不定形から方形へと変化させながら発達している。竪穴住居が環濠の内と外に存在することから、そこに身分的違いが生じたことがわかる。
 三基の居館跡と環濠集落はお互いに密接な関係にあり、我が国の成立を知るうえで重要である。
 このほか、古代(8世紀頃)の整然と配置された7棟の掘立柱建物群の確認と「大領」と読める墨書土器の出土や、中世(12世紀~16世紀)の建物などを濠や柵で囲む屋敷跡などが発見されている。   日田市教育委員会  』

出土品は布留式最古段階(内面ヘラ削りし、口縁部をつまみあげるのが特徴)の甕、外来系(布留式)の円形浮文を貼り付けた二重口縁壷や小型器台などが供伴。

 

この円形浮文を貼り付けた二重口縁壷は、宇佐市の風土記の丘古墳群にある赤塚古墳からも出土されています。赤塚古墳は九州最古の古墳の一つであり、年代的にも一号居館と一致しています。

 

しかし、小迫辻原遺跡には首長墓に相応しい古墳や埋葬品がありません。祭祀用に使われたと思われる土器(在地系・外来系・布留式・庄内式・山陰)が殆どだそうです

つまりこの場所は纒向遺跡と同じ三世紀のもので祭祀に使用され、宇佐と関係した場所ということになります。

 

つづく・・・


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