某歴史学者が近著で明智憲三郎批判を展開しているが、批判内容は論理性がなく、巧みなプロパガンダ手法を駆使したレッテル貼りにとどまっている。ただ、明智説なるものへの危機感が尋常ではないこと、なんとしても明智説を抹殺したいという強烈な意思は読み取れる。
どうやら、その原因は『本能寺の変 431年目の真実』における以下の記述らしい。このような理解が世の中に広まってしまうのは、どんな手を使ってでも阻止したいようだ。「もう黙っていろ」と言いたいのだろうが逆効果だ。
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
以上見てきたように軍記物の書いたストーリーが広く通説として世の中に広まっている背景には歴史学界でも定説として公認されていることが大きく影響している。この現象は「高柳光寿神話」とでもいうべきものである。
高柳光寿著『明智光秀』は五十年以上前に出版された本だ。道徳史観なるものがまだ支配的だった当時には画期的な本だったのだが、いまだに書評では「明智光秀研究の原典の書」、「論理的・科学的内容」などと高い評価を得ており、研究者にとってはバイブルのような存在であり続けている。
高柳氏は大正五年(1916)から東京大学史料編纂所に勤め、その後、編纂官として『大日本史料』の安土桃山時代の編纂を担当した。『大日本史料』は年月日順にその日の出来事に関連した史料の記事をダイジェストして編集したもので、研究者にとっては必需品となっている。
高柳氏が『大日本史料』の編纂にたずさわりながら身に付けた当時の編纂所の史観や知識の集大成されたものが『明智光秀』なのだ。つまり、戦国史の研究者が今でも頼りにしている二つの本、『大日本史料』と『明智光秀』とは同一視点で作られた一貫したものだ。現代の研究は百年近く前の「明智光秀像・本能寺の変像」の器の中にいるともいえるのだ。
その頃は昭和十二年(1937)に勃発した日中戦争に向けて転がっていった時代だ。この時代の国家の英雄は豊臣秀吉(羽柴秀吉)。中国侵攻のお手本として「唐入り」を実行した人物であり、当時の国策遂行にまことに適した人物だったのである。秀吉神話が作り上げられ、秀吉人気が盛り上がっていた。
おそらく歴史学としての豊臣秀吉研究にも少なからずの影響があったのであろう。神格化された秀吉の粗探しのような研究はできるはずもない。『惟任退治記』の重要な意味が問われなかったのはこれが影響しているのであろう。
問題は未だに高柳氏の説を鵜呑みにしている現代の研究にある。たとえば、わずか二十頁程度の『惟任退治記』を読み通してみれば、これが秀吉の宣伝書として書かれたものであること、そこに怨恨説も野望説も単独犯行説も、そのもとが書かれていることが直ちにわかるはずだ。『綿考輯録』に光秀が登場する記事の前後十行程度を広げて読むだけで『明智軍記』を参考にして書いたことが明記されていることに誰もが気付くはずだ。
この状況をみるとかつて存在した冒してはならない秀吉神話の如くに、今では高柳光寿神話が存在しているように見える。この影響により明智光秀や本能寺の変についての研究の根本が曲がってしまったままで正されていないのだ。
それでは、これまでの研究にどのような問題があるのかをまとめてみよう。
1、軍記物への依存
江戸時代に書かれた物語に過ぎない軍記物の記述に史実としての信憑性がないことは歴史学の常識のはずだ。高柳氏も『明智光秀』ではしばしば軍記物の記述の信憑性のなさを指摘している。
ところが、結果として軍記物の書いた記事を史実と認めてしまったり、「誤りが多い」と指摘した軍記物の書いた特定の記事については「よいことも書いている」として信憑性を認めてしまったりしている。明らかにダブル・スタンダード(二重基準)を自分の都合のよいように使い分けている。ところが、無批判に高柳氏の説を踏襲して孫引きしている研究者が多く、『明智軍記』や『川角太閤記』の記事が相変わらず史実としてまかり通ってしまっているのだ。
おそらく軍記物が「ストーリー」を提供してくれているので自説の裏付けとして使い易いのであろう。史料の扱いに慎重な研究者でも、こと本能寺の変となると「軍記物依存症」とでも言うべき様相を呈するのである。
その背景として、『明智光秀』や『大日本史料』に採用された記事だけを研究材料とし、もとの史料そのものを通して読んでいないと思われる現実がある。『惟任退治記』や『綿考輯録』が読み通されていないことは前述のとおりだが、『言継卿記』、『家忠日記』などにも採用されなかった記事に重要な記述がある。このような記事が見落とされたままだ。研究材料として『明智光秀』と『大日本史料』に頼っている限り、これまでの「定説」以外の発見はあり得ない。
2、出自・前半生の見誤り
美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、朝倉義景に仕官し(明智城落城説+朝倉仕官説)、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた(信長・義昭両属説)という定説を前提として本能寺の変研究が行なわれている。高柳氏が定説として公認した『明智軍記』の作り話にとらわれているのだ。これによって本能寺の変の真実を解く基本のパズルにも微妙なズレが生じてしまっている。
3、動機の次元の見誤り
怨恨説・野望説に代わって「面目がつぶされた」、「出世の見込みが立たなくなった」、「発作的・衝動的に」、「そそのかされて」、「ロマンに賭けた」、「忠義心のため」といった動機が唱えられている。いずれも光秀の個人的な感情の次元である。新聞記事にたとえればいずれも三面記事である。「三面記事史観」とでもいえるだろう。
一族の生存と繁栄に責任を負った武将がこのような次元で謀反を決断するはずがないのだが、秀吉が政治事件を新聞の三面記事に書かれるような刑事事件にすり替えてしまい、怨みや野望で謀反を決意し、成功の目算もなく闇雲に謀反の実行に踏み切ってしまったことにした。それを高柳氏が定説として公認してしまったため、研究者は相変わらず三面記事の次元でとらえ続けているのだ。
たとえば、最近、謀反の原因として四国問題が研究者の間で取り上げられるようになってきた。光秀が仲立ちとなって信長が友好関係を結んでいた四国の長宗我部氏との関係が悪化し、信長が長宗我部征伐に政策転換したことが光秀の「面目をつぶした」というのである。
実はこの四国問題も高柳氏が『明智光秀』の中で既に書いている。高柳氏はこの件で光秀は「前途を輝かしいものと思えなくなった」、つまり出世の望みがなくなったとしている。五十年前も今も研究者のとらえる動機の次元は変わっていない。「三面記事史観」なのだ。
謀反に失敗したら一族滅亡だ。その悲惨な事例はいくらでもある。そのような謀反に踏み切るには必要条件が二つある。一つ目は謀反を起こさずにいれば一族が滅亡してしまうという危機認識があることだ。その認識がなければ、一族が滅亡するリスクを負った謀反など行わないからだ。二つ目は謀反を成功させる目算が立つことだ。謀反が成功しなければ、謀反を起こす意味が全くないからである。
このことは重大な投資の決断に迫られる企業経営者にはよく理解できるはずだ。企業という組織の生き残りと繁栄のためには、事業の投資効果と実行計画の妥当性を厳しく評価しながら経営を行なうものだからである。この当たり前の視点がこれまでの研究には明らかに欠落している。
4、謀反実行プロセス研究の手抜き
動機については様々な説が唱えられるが、一方で謀反の実行プロセスについては何も解明がされていない。犯罪捜査が犯行動機と犯行プロセスの両方を解明しなければならないのと同じで、動機論だけでは謀反の全貌を解いたことにはならない。
ところが、油断説、偶発説には実行プロセスの説明が一切ない。全てを偶然で片付けてしまって実行プロセスの説明を回避しているともいえる。
その結果、光秀は「無策」で敗れたという結論にされてしまっている。勝負に負けた側を「無策」と決めつけるのは短絡的な論理であろう。謀反を起こすのであれば必ず成功させられる目算を立てるという当たり前の前提条件が忘れられている。
「様々な状況があったが光秀は発作的に謀反へとジャンプした」と書いた研究者がいたが、ジャンプしたのは光秀の方ではなく、様々考えてみたが辻褄の合う答を見つけられなかった研究者自身の論理の方である。このような形で研究者自身の論理破綻を光秀の破綻に押し付けている例がいくらもある。
5、政治的意図への無頓着
『惟任退治記』を書かせた人物が羽柴秀吉であることからして、この書の内容は彼の政治的な意図によって都合よく書かれていると考えるべきである。書かれていることをそのまま史実とみてしまうのは余りに「人が好い」とも「政治に疎い」ともいえる。
秀吉が書かせた宣伝書に書かれている愛宕百韻の発句「時は今あめが下しる五月かな」が改竄されたものだとは今まで誰も疑わなかった。『綿考輯録』の意図的な記述にも誰も気付かなかった。武将の書いた書状なども同様であり、宛先と書かれた状況によっては嘘を書いている可能性もありえる。それを見抜いていく視点、武将の政治的意図を読み取る視点が欠けている。
武将は厳しい戦国の世に生き残るために戦場で総力を掛けて戦ったが、それ以上に調略に総智を傾けたのである。これを謀略と呼ぶのであれば、武将は謀略の限りを尽くしたといえよう。「本能寺の変に謀略はなかった」と主張する研究者もいるが、厳しい時代を生き抜いてきた戦国武将がお人好しで済むはずがない。
武将の頭脳のデータベースには戦国を生き抜くための膨大な経験・知識・論理が蓄積されていたはずだ。そこからどのような解が導き出されるかについて現代人の乏しい戦国データベースから推測するのはとても無理がある。武将が何を考えていたかについて、現代人が軽々に決め付けてしまうのははなはだ武将にも歴史にも不遜ではなかろうか。
以上の指摘への歴史学者からのまともな反論は残念ながら行われていない。
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
>>> 隠蔽された謀反の動機
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以上見てきたように軍記物の書いたストーリーが広く通説として世の中に広まっている背景には歴史学界でも定説として公認されていることが大きく影響している。この現象は「高柳光寿神話」とでもいうべきものである。
高柳光寿著『明智光秀』は五十年以上前に出版された本だ。道徳史観なるものがまだ支配的だった当時には画期的な本だったのだが、いまだに書評では「明智光秀研究の原典の書」、「論理的・科学的内容」などと高い評価を得ており、研究者にとってはバイブルのような存在であり続けている。
高柳氏は大正五年(1916)から東京大学史料編纂所に勤め、その後、編纂官として『大日本史料』の安土桃山時代の編纂を担当した。『大日本史料』は年月日順にその日の出来事に関連した史料の記事をダイジェストして編集したもので、研究者にとっては必需品となっている。
高柳氏が『大日本史料』の編纂にたずさわりながら身に付けた当時の編纂所の史観や知識の集大成されたものが『明智光秀』なのだ。つまり、戦国史の研究者が今でも頼りにしている二つの本、『大日本史料』と『明智光秀』とは同一視点で作られた一貫したものだ。現代の研究は百年近く前の「明智光秀像・本能寺の変像」の器の中にいるともいえるのだ。
その頃は昭和十二年(1937)に勃発した日中戦争に向けて転がっていった時代だ。この時代の国家の英雄は豊臣秀吉(羽柴秀吉)。中国侵攻のお手本として「唐入り」を実行した人物であり、当時の国策遂行にまことに適した人物だったのである。秀吉神話が作り上げられ、秀吉人気が盛り上がっていた。
おそらく歴史学としての豊臣秀吉研究にも少なからずの影響があったのであろう。神格化された秀吉の粗探しのような研究はできるはずもない。『惟任退治記』の重要な意味が問われなかったのはこれが影響しているのであろう。
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この状況をみるとかつて存在した冒してはならない秀吉神話の如くに、今では高柳光寿神話が存在しているように見える。この影響により明智光秀や本能寺の変についての研究の根本が曲がってしまったままで正されていないのだ。
それでは、これまでの研究にどのような問題があるのかをまとめてみよう。
1、軍記物への依存
江戸時代に書かれた物語に過ぎない軍記物の記述に史実としての信憑性がないことは歴史学の常識のはずだ。高柳氏も『明智光秀』ではしばしば軍記物の記述の信憑性のなさを指摘している。
ところが、結果として軍記物の書いた記事を史実と認めてしまったり、「誤りが多い」と指摘した軍記物の書いた特定の記事については「よいことも書いている」として信憑性を認めてしまったりしている。明らかにダブル・スタンダード(二重基準)を自分の都合のよいように使い分けている。ところが、無批判に高柳氏の説を踏襲して孫引きしている研究者が多く、『明智軍記』や『川角太閤記』の記事が相変わらず史実としてまかり通ってしまっているのだ。
おそらく軍記物が「ストーリー」を提供してくれているので自説の裏付けとして使い易いのであろう。史料の扱いに慎重な研究者でも、こと本能寺の変となると「軍記物依存症」とでも言うべき様相を呈するのである。
その背景として、『明智光秀』や『大日本史料』に採用された記事だけを研究材料とし、もとの史料そのものを通して読んでいないと思われる現実がある。『惟任退治記』や『綿考輯録』が読み通されていないことは前述のとおりだが、『言継卿記』、『家忠日記』などにも採用されなかった記事に重要な記述がある。このような記事が見落とされたままだ。研究材料として『明智光秀』と『大日本史料』に頼っている限り、これまでの「定説」以外の発見はあり得ない。
2、出自・前半生の見誤り
美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、朝倉義景に仕官し(明智城落城説+朝倉仕官説)、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた(信長・義昭両属説)という定説を前提として本能寺の変研究が行なわれている。高柳氏が定説として公認した『明智軍記』の作り話にとらわれているのだ。これによって本能寺の変の真実を解く基本のパズルにも微妙なズレが生じてしまっている。
3、動機の次元の見誤り
怨恨説・野望説に代わって「面目がつぶされた」、「出世の見込みが立たなくなった」、「発作的・衝動的に」、「そそのかされて」、「ロマンに賭けた」、「忠義心のため」といった動機が唱えられている。いずれも光秀の個人的な感情の次元である。新聞記事にたとえればいずれも三面記事である。「三面記事史観」とでもいえるだろう。
一族の生存と繁栄に責任を負った武将がこのような次元で謀反を決断するはずがないのだが、秀吉が政治事件を新聞の三面記事に書かれるような刑事事件にすり替えてしまい、怨みや野望で謀反を決意し、成功の目算もなく闇雲に謀反の実行に踏み切ってしまったことにした。それを高柳氏が定説として公認してしまったため、研究者は相変わらず三面記事の次元でとらえ続けているのだ。
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実はこの四国問題も高柳氏が『明智光秀』の中で既に書いている。高柳氏はこの件で光秀は「前途を輝かしいものと思えなくなった」、つまり出世の望みがなくなったとしている。五十年前も今も研究者のとらえる動機の次元は変わっていない。「三面記事史観」なのだ。
謀反に失敗したら一族滅亡だ。その悲惨な事例はいくらでもある。そのような謀反に踏み切るには必要条件が二つある。一つ目は謀反を起こさずにいれば一族が滅亡してしまうという危機認識があることだ。その認識がなければ、一族が滅亡するリスクを負った謀反など行わないからだ。二つ目は謀反を成功させる目算が立つことだ。謀反が成功しなければ、謀反を起こす意味が全くないからである。
このことは重大な投資の決断に迫られる企業経営者にはよく理解できるはずだ。企業という組織の生き残りと繁栄のためには、事業の投資効果と実行計画の妥当性を厳しく評価しながら経営を行なうものだからである。この当たり前の視点がこれまでの研究には明らかに欠落している。
4、謀反実行プロセス研究の手抜き
動機については様々な説が唱えられるが、一方で謀反の実行プロセスについては何も解明がされていない。犯罪捜査が犯行動機と犯行プロセスの両方を解明しなければならないのと同じで、動機論だけでは謀反の全貌を解いたことにはならない。
ところが、油断説、偶発説には実行プロセスの説明が一切ない。全てを偶然で片付けてしまって実行プロセスの説明を回避しているともいえる。
その結果、光秀は「無策」で敗れたという結論にされてしまっている。勝負に負けた側を「無策」と決めつけるのは短絡的な論理であろう。謀反を起こすのであれば必ず成功させられる目算を立てるという当たり前の前提条件が忘れられている。
「様々な状況があったが光秀は発作的に謀反へとジャンプした」と書いた研究者がいたが、ジャンプしたのは光秀の方ではなく、様々考えてみたが辻褄の合う答を見つけられなかった研究者自身の論理の方である。このような形で研究者自身の論理破綻を光秀の破綻に押し付けている例がいくらもある。
5、政治的意図への無頓着
『惟任退治記』を書かせた人物が羽柴秀吉であることからして、この書の内容は彼の政治的な意図によって都合よく書かれていると考えるべきである。書かれていることをそのまま史実とみてしまうのは余りに「人が好い」とも「政治に疎い」ともいえる。
秀吉が書かせた宣伝書に書かれている愛宕百韻の発句「時は今あめが下しる五月かな」が改竄されたものだとは今まで誰も疑わなかった。『綿考輯録』の意図的な記述にも誰も気付かなかった。武将の書いた書状なども同様であり、宛先と書かれた状況によっては嘘を書いている可能性もありえる。それを見抜いていく視点、武将の政治的意図を読み取る視点が欠けている。
武将は厳しい戦国の世に生き残るために戦場で総力を掛けて戦ったが、それ以上に調略に総智を傾けたのである。これを謀略と呼ぶのであれば、武将は謀略の限りを尽くしたといえよう。「本能寺の変に謀略はなかった」と主張する研究者もいるが、厳しい時代を生き抜いてきた戦国武将がお人好しで済むはずがない。
武将の頭脳のデータベースには戦国を生き抜くための膨大な経験・知識・論理が蓄積されていたはずだ。そこからどのような解が導き出されるかについて現代人の乏しい戦国データベースから推測するのはとても無理がある。武将が何を考えていたかについて、現代人が軽々に決め付けてしまうのははなはだ武将にも歴史にも不遜ではなかろうか。
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