世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●続編…階級社会突入の日本 豚が肉屋を応援するなんて……

2018年02月07日 | 日記
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●続編…階級社会突入の日本 豚が肉屋を応援するなんて……

例えとしては俗悪だが、豚が“茹で蛙”になったかどうか別にして、たしかに、一部日本の豚が、積極的に肉屋を応援支持している傾向がみられる。何故だろうと自問自答するが、かくたる回答は得られていない。豚が肉屋を支持する状況証拠は幾つか思い当たるが、決定的な物的証拠には至らない。

たしかに、屋上屋を重ねるようにして、田畑や野山を開拓してみたり、壊れてもいないビルを解体して、新たな超高層ビルを建ててみたり、これでもかと、厚化粧を施しているのが、今の日本ということだろう。有り余った金が、必要とするところに回らず、不必要で、もう要らないと云うところに、次々と注がれるのだから、真剣に貧困を見つめている人々から見れば、日本政府のやっていることは、貧困層を醸成しているようにさえ見えるのだろう。

 これらの出来事の多くが、新自由主義経済学者らの付和雷同的な言説に沿ってなされ、既得権を持つ人々にとって親和的であったことも手伝い、日本政府の経済政策というものになった。早い話が、政策という名にふさわしくない低レベルの原理で行われているが、トリクルダウン神話は、時を稼ぐには最適な幻想的神話だったから、政府が飛びつくには最適なものだった。しかし、そこには、本来あったであろう、日本人のわかち合いの心というものが失われた経済政策といっても過言ではない。

そうして、不機嫌な時代がはじまり、椅子取りゲームは厳しさを増し、利巧はより利巧に、馬鹿はより馬鹿に、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に、という無限ループな世界が出現している。もしかする、日本の豚は、百田尚樹が描く、狂った潔さに狂信的美を感じているのかもしれない。いや、そんな高級なものではないだろう。ただひたすらに、無知で乱暴な困った人々なのだが、トランプの岩盤支持層同様、安倍晋三の岩盤支持層になっている。やはり、豚が肉屋を愛してやまない。日本と云う国、倒錯の世界に突入しているとすると、どこか怖いものがある。


 ≪ 格差・貧困に背を向けた結果、日本は「階級社会」に突入していた

これは、極めて政治的問題だ

■「格差」は隠蔽されたか
格差拡大が話題になり始めたころ、政府、財界、そして一部のマスコミは、躍起になって格差拡大の事実を否定しようとした。

最初の段階では、都合のいい統計データを示しながら、「格差は拡大していない」と言い張った。いくつもの指標が格差拡大を示していることを否定できなくなると、「格差拡大は見せかけだ」と言いだした。
 OECDが、日本の貧困率は先進国のなかで米国に次いで高いと発表すると、「この貧困率の計算方法は日本にはあてはまらない」などと言い張った。さらに統計的な証拠が集まって、格差が実質的にも拡大していることが否定できなくなると、「格差があるのは当然だ」と開き直った。

こうして政府が、格差拡大と貧困の増大という事実から目を背け、開き直り、対策を怠っているうちに、日本社会は取り返しがつかないほどに変質してしまった。その結果が、前回の記事(平均年収186万円…日本に現れた新たな「下層階級」の実情:これがニッポン「階級社会」だ)で書いた、新しい階級社会と巨大な下層階級(アンダークラス=パート主婦を除く非正規労働者たち)の出現である。

ここから明らかなように、格差は政治的な争点である。しかも、それは階級的な利害と密接な関係にある。 人には日本国憲法で認められた生存権と平等権がある。だから生存権を脅かすような貧困の存在が明らかになれば、政府は対策を取らなければならない。 平等権が侵されるほどに格差が拡大していることが明らかになれば、やはり政府は対策を取らなければならない。しかしそのためには、富を特権階級から下層階級へと移転させなければならない。特権階級の利害は脅かされることになる。

だから特権階級は、貧困の存在も、また格差拡大の事実も認めたくない。特権階級は、自分たちが恵まれた立場にあることを隠すため、いまの社会では格差が小さいと主張する。そうでなくても、格差は許容範囲であり、縮小させる必要はないと主張する。

 このように貧困が存在するか否か、格差は拡大しているか否かといった、社会に対する認識自体が、階級間の対立の争点なのである。

 ■「一億総中流」は幻想
そして高度経済成長が終わって以降の日本において、格差をめぐる階級間の対立で勝利を収め続けてきたのは特権階級の側だった。そしてこの間、日本政府が格差は深刻ではないと言い続けてきたということは、日本政府が特権階級の代弁者であり続けてきたことの、何よりの証拠である。

 1970年代の終わりには、「一億総中流」という言説が流布し、あたかも格差や貧困の問題は日本からなくなったかのような幻想が振りまかれた。たしかに当時、現在に比べれば日本の格差は小さかったが、中小零細企業や零細な農家には依然として深刻な貧困があった。

そしてまもなく、1980年代に入ったころには格差は拡大し始めていた。しかし「一億総中流」という幻想のもと、格差拡大は放置され続けた。そればかりか、消費税の導入、高所得層の所得説率の引き下げなど、格差拡大を助長する税制の改変が行なわれた。

1990年代に入ると、一部の経済学者や社会学者が、格差は拡大していると指摘し始めた。しかし、これらはほとんど無視され、政府は逆に格差拡大を積極的に促進するような政策をとり始めた。財界人を中心とするメンバーで構成された経済戦略会議は、日本の社会は、「行き過ぎた平等社会」だと根拠もなく断じ、富裕層減税と低所得者の増税を提言し、これが実行に移された。

反面、非正規労働者の低賃金と不安定な身分は放置された。そのうえ規制緩和によって、非正規労働者は激増し、巨大なアンダークラスの出現へと至るのである。 :2009年から3年だけ続いた民主党政権が、遅まきながら格差が拡大し、貧困率が上昇しているという事実を認め、対策を取ると明言したこともあり、こうした事実自体は、広く認められるようになった。

代わって格差を正当化するイデオロギーとして流布し始めたのが自己責任論、つまり収入が低いのは自己責任だから放っておけばよいとする主張である。いまのところ自己責任論の影響力は強く、これが格差縮小に向けた合意形成の最大の障害になっている。

 ■紋切型の「自己責任論」
 格差拡大の事実を認めるか否か。格差拡大を是正すべきと考えるか否か。貧困を自己責任として切り捨てるか否か。これらは、現代日本における階級対立の主要な争点である。

 一方に、格差拡大は事実であり、これは是正される必要があり、貧困は自己責任ではなく社会の問題だと考える立場がある。これは下層階級の、そして下層階級の人々に共感と同情を抱く人々の政治的立場の表明である。

反対に、格差拡大と深刻ではなく、是正の必要はなく、貧困は自己責任だと切り捨てる立場がある。これは特権階級の人々の、そして格差拡大を放置し拡大させてきた政府や企業を擁護する人々の政治的立場の表明にほかならない。 さらに重要な争点を一つ付け加えよう。それは、現代の日本社会が階級社会であることを認めるか否かである。

2015年に全国の1万6000人、2016年に首都圏に住む6000人を対象に行なった調査の結果にもとづいて、現代日本の危機的な状況について論じた『日本の新・階級社会』(講談社現代新書)に示したように、今日の日本は「格差社会」などという生ぬるい言葉で表現すべき段階にはない。

明らかな「階級社会」、しかも900万人にも及ぶ新しい下層階級(アンダークラス)を底辺におき、これに犠牲を強いる、新しい階級社会だと考えるべきである。

 ≫(現代ビジネス:橋本健二早大人間科学学術院教授)


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