私たち衆生は、「修行(禅)というもの」を知識としてよく知っています。
「知った上」で善い悪い、解決したしない等と様々な考えを巡らせて
「修行(坐禅)」を行じています。
人間(にんげん)の知恵で考えたものは、絶えず変化し移り変わっているために
知れば知るほど「分からない」ということが出て来ます。
そうすると更に「分からないもの」があるから「修行(坐禅)」をして
「分かるように成ろう」などと考えて、「修行(坐禅)」を手続きや方法として
用いるためにますます自分と「修行(坐禅)」とが離れてしまい、その結果
いつまでたっても「法、道、禅、修行等」が残ってしまうのです。