まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

パルさん縁で、懐かしきことへの寄り道です  あの頃

2022-08-08 04:15:33 | Weblog

   下中  パル博士

ビール仲間だった平凡社の下中邦彦(社長)に誘われて箱根のパル・下中記念館に行ったおり、パンフレットに見覚えのある書風の碑文が載っていた。

記念館は邦彦さんの父、当時の出版界の大立者、下中弥三郎氏と極東軍事裁判(東京裁判)のインド選出判事、ラダビノード、パル博士との厚誼を記念して建てられたものです。

パンフには広島市本照寺院内に1952年に建立されたとある。【大亜細亜悲願の碑】と刻まれた石版には、住職筧義章師の求めに応じて揮毫されたパル博士の言葉が同様に刻まれている。
「大東亜悲願の碑」は宮島詠士(大八)氏の筆によるものである

 じつは以前、筆者が毎年招かれた鎮海観音会という法要があった
世田谷の豪徳寺という名刹で催される会の主催者は宮島家の当主である。
本堂の読経は住職と僧四名で迫力ある観音経を唱和する。その後、縁ある方々の霊を読み上げるのだが、昭和史を飾る軍人、政治家、思想家など百人余りにのぼる。

 観音像は韓国の鎮海にあったものとの来歴があるが、戦前の法要には内外の要人が多く集い荘厳な法要だった。その主唱者が宮島大八氏だが、氏を有名にしたものがもう一つある。それは、「書は東へ行った」と中国書壇から畏怖を込めて賞賛されるぐらいの名筆家でもあることだ。またその風貌は素朴な学者風であり、大言壮語を吐く壮士でもない。

あの中野正剛をして、こんな人物が日本に居たのかと心酔されている。

1943年(昭和18)に亡くなっているが、故人の銘筆を刻む筧住職も、さぞ縁の持つ偉大さを想起したことだろう。

パル博士の縁で、また一つ備忘のための残像が懐かしさをもって蘇ったことに感謝しなければならない。


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