まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正篤 「力士憲章」と横綱白鵬関  再

2021-09-29 02:35:45 | Weblog

「界」と称するものにはそれぞれ固陋な掟はある。

政界、経済界、教育界 官界 宗教界、あるいは文壇もそうだが、内部の独特な運営や人事の仕組み、金銭の使い方や処理方法についても法律ではくくれない事情もある。

表に出れば問題になることだが、すべてを法で括れば大方は法に触れる。犯罪ではないにしても触法に近い。

かつ、それを取り締まる警察や裁きをつかさどる裁判所にも掟や慣習もある。これも表に出れば煩雑な法に触れる。

まして、技芸やスポーツの世界には肉体的衝撃を魅せて商い興行になるプロとなれば当然のこと、外部には秘する、゛しきたり゛が有るのは当然にことだ。

それは、゛ほど゛がないと成り立たない世界だからだ。宗教界の修行秘儀や格闘技などは肉体緒撃どころか死に至ることもあるからだ。

攻めたり、追い込んだりする側と、受ける、守る側には阿吽の了解ごとがなければ、殺し合いか教義と心中になりかねない。

 

          

       

   四角四面のわからず屋は野暮天よ

本文

漢学者安岡正篤と双葉山の交流は有名だが、横綱白鵬が優勝インタビューで「土俵の神様(精霊)・・・」とか、攻めて自在になることから、一歩すすんで「受けて攻める」境地を理想の相撲と述べるが、あの宮本武蔵を著した吉川英治が現在モデルとして安岡氏をイメージした逸話もある。安岡氏の青年期の鍛錬は剣道だが、「目で見るな、観の目でみる」と武蔵に言わせている吉川も、あるいは角聖と謳われた二葉山も相手を全体視して待つ境地が安岡氏の言辞によくある内容である。

だだ、数値の星勘定や、観たくて集まる観衆の流行り機嫌、あるいは商い興行の胴元の算段も解らぬものではないが、憲章にあるとおり土俵上は死活の現場だ。観衆の声も聞こえないくらいの緊張感と俵のワラ一筋の外と内に命を懸けている。
一生懸命と簡単にいうが、一生のために命を懸けている力士の緊張感は、懐刀を抱く行司の軍配と同様、四面に座る親方審判員とは緊張感が自ずと異なる。






モンゴル人に日本刀が似合うわけは後段に記す



真剣興奮のあまり「子供でも分る」と呟いた。
大人相手に耳に入れば煩いがある呟きはあるが、名横綱大鵬を超えたキャリアがある白鵬の言の葉に、あえて首を垂れ詫びを入れさすことも大人げない。
相撲は国会議員がつくる成文法の枠外にある陋規、つまり掟や習慣にあるものだ。
もし新記録の掛かった勝負を横綱らしく明確な勝負にしたいと考え、それが白鵬の横綱相撲の矜持と深い思いもなかには察するところもあろうが、彼も日本刀を下げたモンゴル騎兵の縁なれば、武士に対する応えも変わるだろう。

 

相撲はスポーツなのか、武道なのか、祭事の演舞なのか、固陋な相撲興行の選手なのか、個々の切り口は数多あるが、全てに当てはまり含んでいる。身分は野球同様に相撲部屋所属すれば門人、門下として移籍はできない。球団も携帯ではないが年期縛りがあり、多くは金銭対価で取引される。養成費用、つまり人的投資と獲得権利だが、芸能プロダクションに似ている。

よく、棄て試合とか、打率が拮抗すれば分母である打席数を減らすために、わざと休ませたりもする。観客は棄て試合と知らず交通費を使って球場に足を運ぶが、二流投手と強打者が出場しなくても、知らなければそれで満足するが、判れば八百長試合だ。

相撲も八百長問題があったが、狭い範囲の習慣や力士仲間の共助の掟なのか、当時は強い上位力士から、下位に働きかける事があったらしい。取ってみなければ判らないことだが、一種の保険と同業の現場共助とも思える仕組みのようなもので、野球同様第三者の賭博行為と連動すれば掟や慣習のの世界から成文法の違法行為となる。むかしの黒い霧事件も野球機構から追放になったが汚職や背任罪で逮捕されてはいない。つまり、野球機構という興行野球界や相撲協会も告発はしないからだ。つまり警察や裁判官、あるいは弁護士に世界らは馴染まないその世界にしか通用しない狭い範囲の陋規(掟・習慣性)だからだ。

スポーツはルール、相撲は礼儀、それぞれの世界を成立せしめている形式がある。また、家庭や社会でも成文法に縛られていては成り立たないし継続性もない。そこには不文律である、マナー、道徳心、組織への帰属意識、あるいは郷土愛、愛国心を共通概念として、どうにか社会の混沌化を抑えている。ここで白鵬関の三三七拍子と万歳が問題になったが、日本に帰化して国家を歌う横綱が観客と連帯して国を寿ぐ行為に第三者の了見の狭さを観るのだ

不祥事、震災、などで白鵬の多くの言葉に日本人は癒された。またその深慮から出でる言葉は意味深くも感服する。老成した日本人にも優る姿だが孔子の言にあるように、未だに「三十にして立つ」齢だ。まだ四十の不惑や六十の耳順にも届かない齢だ。










双葉山は連勝が途絶えたとき訪欧中の安岡に打電している。
「ワレ、モッケイ,ニ,イタラズ」(吾,木鶏に至らず)
隣国の故事にある、騒がしく鳴かず、ばたばた動かず、そんな木で彫った鶏のような、鎮まりを以て堂々とした人間にはなれなかった、という意の打電だ。
安岡は「双葉山は負けた」と察した。

横綱の位とはそのようなものだ。その学びは他に教えられるものでなく、身に浸透する自得学であり、他人の解らない境地なのだ。だから始めは戸惑い、悩むのだが、解決は真剣な鍛錬しかない。

双葉山はその背景を学びとして安岡に求めている。
角界は白鵬の深慮と相撲に対する溢れる熱情を、民族普遍なものとして理解しているのだろう。しかし、相手力士に偏った声援を送り、白鵬が負ければ座布団が舞う観客がいても、それを超えて心を平静に保つことは、今の同年代の日本人にも解らない境地なのだろう。

安岡はそれを双葉山に求めた。横綱は変人と噂されようとそれに邁進した。その範となったのが相撲道憲章だ。

白鵬も木鶏になるだろう。「受けて攻める」これが十五日間納得出来たら辞めてもいいという。
まさに日本刀を差したモンゴル騎兵の士道を醸し出す雰囲気がある

他と異なることを恐れない」それが道を歩む者の誇りでもあろう。




モンゴル(元)からヨーロッパ騎兵へ、明治の秋山好古は騎兵を西洋式に転換、満州士官学校で学んだモンゴル青年は再びモンゴル騎兵となる。



モンゴル騎兵の帯刀は日本刀 彼らは日本刀に魂が宿るという。白鵬関にも似合う




安岡氏が撰した憲章だが、冒頭は「日本相撲道 力士憲章」である。


一 相撲は日本の国技と称され、国史に伴い、時運を反映してきたものである

(相撲は我が国の国技といわれ、連綿と継承され、時の流れに反映して存続している)


二 相撲は日本国民の趣味と情熱、勇気と練磨を象徴する力と技の精華である

(相撲は日本人の情緒とその発露として勇気と訓練努力を力と技で表したものである)


三 相撲は勝負を競うて勝負の上に出て、力と技より進んで道に入る


(相撲は力や技で勝ち負けを競うものだけではなく、人品、人格を高める道筋でもある)


四 力士は古来恩義に厚く、礼節を尚ぶ。とくに師恩友益を尊重する


(力士は古より情け深い心と義に悟る心を熱くして、礼儀や節度を大切にして、とくに恩師への感謝と力士相互の交情を大切にする)


五 力士は居常健康に留意し、行持を慎み、鍛錬陶冶を怠らず、各自天分の大成を期する


(力士は普段の生活において健康維持に心がけ、行いを慎み、弛まぬ修練を怠らず、自己の特徴を伸ばし、与えられた役割において心身の大成を心掛ける)
(    )は筆者の簡訳

昭和四十二年未丁二月十一日   双葉山道場

附記
上記は日本相撲協会の元締時津風(横綱双葉山)定次氏の懇請により起草し、安岡正篤氏と相談して定めたもの。

昭和十六年の冬、双葉山道場のために撰された力士規七則が同道場で戦禍のため焼失したので新撰した。

安岡正篤 憂楽秘帖 より

イメージは関連サイトより転載

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