まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人物を「見る眼」と「観る直感」の大いなる違い 13 1/11あの頃

2017-08-01 08:17:24 | Weblog

 


よく女房をみても男はわからない。゛連れている女(いろ)をみれば器量も分かる゛と、浮俗ではいう。家庭内の切り廻しをする妻に対しては恐縮だが、でき、不出来のことを指しているのではない。連れ歩く男の、人を視る眼と己の「分」が判っているのかを問うているのだ。

派手好みで行儀が悪く、みだらな欲を亢進する女を連れていては、男の行く末もわかる。よく挨拶もできなく立場もわきまえないような女を公式な場面に連れ回している男がいる。
そんな接待役かマスコット、はたまた己の卑小さを隠すつもりで女に媚をうらせている野暮な男がいるが、そんな男に限って威勢のいい能書きを言うようだ。

そのショーケースのように各党に陳列された選挙候補者にも似たようなことがある。
とくに小選挙区や比例代表、さかのぼれば参議院全国区からその傾向は顕著になっている。それを大衆迎合などという生易しいものではなく、有権者をはなから愚民としてしか見ていないのではないかともおもえる陳列である。料理ならいかにも旨そうに、ブランドならいかにも希少で高価そうに並べるが、バナナのたたき売りではないが、裏も表もどれもこれもバナナには変わらない。

地方自治体にもその姿はある。国政顔負けに与野党があるが、態の良い是々非々論を掲げながらも食い扶持安定についてはオール与党となることもある。国政と違うところは、政策立案は理事者側(首長)にあり、出された予算を意志乏しい議論をするが、本来の仕事である決算チェックすら、その決算書も読み解けない議員も多い。それでいて地域の平均所得の何倍もの高待遇の給与と待遇をうけ、おまけに視察と称して過剰請求をして小遣いをせしめるものもいる。しかも、それを承知で視察予算を設定する官吏もしたたかだ。

それらに人物観や人格を問うのも津々浦々の掟や習慣性の為すものであり、徒労すら覚えるものであるが、それも我が国の民癖とおもえば諦めもつく小人の業だ。だだ、民情の地殻はその状況に耐えきれず破砕しやすくなっていることも昨今の事情だ。

さて、その候補者に戻るが、参議院全国区のころは女優やアナウンサー、落語家,学者など多彩な顔ぶれが並んだが、当時の参議院の員数集めとして著名人立候補が始まった。
あの、佐藤総理夫人の覚えめでたかった文筆家石原新太郎氏もその一人だ。派閥スポンサーだった企業選挙も盛んだった。国民をおろかとみて愚弄したのか、その頃から見栄えのいい候補、ハナシの巧いアナウンサー、毒舌ガス抜き候補など多彩だったが議員の役割は応援演説がもっぱらで、なかには芸能人やスポーツマンを帯同して意味不明な衆遇選挙を繰り広げた。

その後は福祉やスポーツ振興の名のもとにプロレスラー、力士、オリンピック選手など、これまた人寄せパンダと揶揄されるようになった。手綱を握るのは派閥ボスだ。

とくに比例代表制ともなると時の人や有名人が重宝され、その候補者が所属する政党は人気投票のごとく集票し候補者に振り分けられた。振り分けられる方は舞台回しの悪い役者のごとくみられた官僚OBや業界の傀儡候補者いたが、政党にとってはこちらが本命だった。

その後は、修得練度は不明だが横文字学校の経歴か、東大法科、早稲田雄弁会、、そして松下政経塾と変化はしたが、数値評価はともかく政治に肝要な教養や下座観、深層の情緒などを涵養した人物は、まるで枯渇したかのように見かけなくなった。流行りは弁護士と作家、コンサルタントだが、口舌あざやかだか胆力や人望などに資質は求めなくなり、それが高じて議会は騒がしくなり、抗論(はりあって言いあう)が争論となり、党内も荒れた公立中学校の教室のようになっている。長幼の序(順)を知らず、総理でさえ愚か者呼ばわりする行儀の整っていない議員が増え、劇場型といわれるほど見せ場を作ることに労して、大衆もそれを楽しみ喜ぶという現状だ。






弘前こども議会



何のいい訳か、民主主義と議会主義に振り分けて、
≪「議会主義」とは不安定な「民意」を直接政治に反映させない工夫であり、だから両者が時に対立するのは当然≫
だと、大学教授の言を借りて「産経抄」は書いている。

それは、多くの新聞が自民党の圧勝と政権復帰を書いているのに、東京新聞は「脱原発の民意と隔たり」と書いたことへの異端視である。だから東京新聞は書いたのだろう。近ごろの新聞は異なることを恐れないのが意志の姿だということを知らないらしい、いや忘却したのだろう。
どちらの一面が目を引くかは売り紙屋の勝手だ。またどのように書こうと押し売り契約を強要し、洗剤や野球観覧券を餌に最低でも三カ月契約するユーザーからすれば、そうそう新聞屋を替えられない。だだ、書いてあるものを読むだけだが、東京の一面を云々するなら各氏のコピーを載せて読者に閲覧してもらえばいいことだ。

問題とするのは一面の標題活字ではなく、論調とその書き手の意志だ。たかだかと思える部数の少ない東京新聞への慇懃な批判だが、どうも産経抄はちかごろ多面的な観察に自身の生業であり第四権力と称する「界」を含めた実相と人の世との関連性(影響力)の検証が乏しくなっている。
彼らにしても、民意を煽り選挙掲載でしこたま儲けた瓦版の理屈だが、それを以て経済(予算)効率ばかりが取り上げられる議会の、そして議員の現状を将来逆賭なしに、゛お追従゛して、ただ面前の有り様を書き連ねる記者の様相は問題にもならない。
※「逆賭」 将来を先見して、いま行うべきことを考える


しかも、政党の人寄せパンダをとりあげて民意を触発するのも彼らの仕事だ。
視る眼がないからこそ、学者の言を借用して「うろこが落ちた」と平然としているのだ。
一片の言に上げ足をとり、大型活字で大事だと煽り、岡っ引きに行列して事件を貰い、通信社の記事を買って視てきたような記事を書き、官吏の提灯記事を平然と国民に流す、これでは隣国の人民日報を嗤えない。


≪個別の政策を繁栄させるのが民主主義とするならば・・・・≫

ならば、人物、ここでは代議士として不特定多数に有効なのか、視る眼を養うべきだ。
ちなみに、「観人則」は
地位があがったらどのような人物を登用するか
財をもったらどんな使い方をするか
どんな友人をもっているか  
等々、今流の地位、名誉、財力、学校歴と称する人格と何ら関係の無い附属性価値では、国家の用となる人材は得られない

以前、友達内閣と揶揄された時、総理のコバンザメのように総理がインタビューを受ければ肩越しから首を出し、外遊にいけばまるで仲間内の若者のごとく振舞っていた。これが国家百年の要といわれていた文科省では、いまだ講釈、理屈の外形がまかり通るらしい。

まさか、新聞社採用もそうなら自滅は必然だ。
言論人、陸羯南はそんに観人則はもたなかった。だから正岡子規も長谷川如是閑も採用された。大企業となった新聞社ではとくに変わり者は不採用だろう。だだ、羯南の人を観る眼は変わり者を明治の傑物とした。そして彼らもそれに応えた。

新聞社も政治任用も人物を得ることが肝要だ。とくに倣うべき人物がオボロゲニなった今こそ、見せる人より、魅せる人物の任用が必要だと感ずる次第。

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