日本人とは、明治創成期に国家、国民として呼称された日本人的たぐいではなく、棲み分けられた地域に必然として養われた情緒を抱く人たちのことである。
また国家は複雑な要因を調和連結したもので、アカデミックに論を整理したようなことでは表現できないものである。
人、物、自然環境、変化変遷、循環、争いと裁き、あるいは要素としての伝統、民族、領土という三点を論ずるものでもない。
「人が人でなく、どうして国家が国家として成りえようか」
清末の哲人、梁巨川(生地桂林)の言行を景嘉氏によって著された、「一読書人の節操」の帯表紙に書かれている章を、身の丈も知らず座右jとしている筆者の眼には、現在が標題のように映るのである。
若かりし頃、世間知らずは楽しかったと少年時代を懐かしんだ。
何であの時行動しなかったのかと青年期を懐かしみ切なく想ったか。
壮とみられる期に差し掛かると、妙なお節介が世の中とリンクしはじめる。
今どきの若者のように口角泡を飛ばし自説を広言したり、衆を恃んで宗教や政治団体にまぎれることも無かった。ただ目の前の親から棄てられた少年や、非行少年と選別された子供たちに向き合うのが精一杯だった。今から考えるとそのステージは下座観を養う場面だったようだ。また自身もそう見えた。
映る姿は、彼らを元気付け、社会にも優しい人々がいる、若輩ながら精いっぱい紗の掛かったガードを添えて立ち直りの容易さを伝えていた。でも流されていた。
世は飽食の時代といわれ、大衆は囲われた自由の中で幸せの姿を教えられ追求した。しかしその不思議さは不平不満を増長させ、また妙な察知をおこした人々が多感多面という「個」の擬似的発揮を促され、自身の戸惑いの解決の為に、人の世とは違う「似て非なる政治」へリンク(関与)しはじめた。
器量も度量も物差しも無い半熟の人間たちだった。
よく明治の親爺は頑固だった。その子供たちは頭を垂れながら半知半解の警言を聞いていた。その言は、人の心の陥るところと、それらが構成するだろう社会だった。
だから結び目として天皇の在り様を必然なものとして説いた。
自由が放埓となり、少々の金や力が付くと遣ってみたくなる、いや試したくなることへの自制もあった。難しい人生への問だった
「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」(王陽明)
つまり、欲望と邪という「賊」の発生とコントロールだった。
しかし、世間知らずは楽しい世代だと、少々身持ちのよくなった大人は突っ走った。
政治も故郷の主だったものの務めだった。ただ民主という流行り外来の啓蒙思想はそれを変質させた。教育も、商いも、ノーブレスオブリュージュといったその任にあたるものまで変わった。
あの時、無力感の漂う政治は外地現状看過としてその機能を軍官吏に託した。
数値で表される軍事、経済、外交理解、で負けたのではない。あるいは明治の薩長軍閥の残滓のせいでもない、日本人が衰えたのだと知った。
それは「真の日本人がいなくなった・・」と歎いた孫文の嘆息と同じだった。
その後、敗戦の惨禍から富への欲求という当然ながらの循環に打ち消されるように、また心中の賊を討ち漏らした。
そして若者たちは自身の戸惑いを解消するために、またある一群は心中の賊と同衾しながら政治に、゛若さと新風゛という、風変わりな姿をもって参入してきた。
それを大人も迎合した。だが依頼心と阿諛迎合がほとんどだった。
それさえも刺激に慣れ、飽きてきた。
そのうち、生きていることにも飽きるに違いない。
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