大塩平八郎の乱…ってなんだっけの巻

投稿日:2018年6月19日

こんにちは!栁澤です。

中高生の頃の教科書の内容を見てみると、「こんな言葉あったな」みたいなものに出くわします。言葉は覚えてるんだけど中身に関しては何だっけ的な奴です。

例えば…世界史では絶対習うワード「カノッサの屈辱」とか。「ドーハの悲劇」みたいな感じがしますがこれは言葉は強烈に覚えてるのに何だっけ…ってかんじです。
確か…プロイセンだったかドイツ方面の皇帝が、何かやらかしてローマ法王に泣きついたけど許してもらえなかった…みたいなかんじだったかな…。その「誰が誰にどうして」ってのがテストでは重要なのに!!ちなみ、ウィキペディア先生によると…

カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、ドイツ語: Gang nach Canossa、イタリア語: Umiliazione di Canossa)は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していたローマ王ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指すんだそうです。今でもヨーロッパでは「大っ嫌いでムカついてるのに屈服して謝罪しなきゃならないこと」を「カノッサの屈辱」と呼んだりするらしい。「お前それはカノッサの屈辱だわ、無理だわ」みたいな感じなんですかね~。

話が逸走してしまいました。「大塩平八郎の乱」でした。

まず「大塩平八郎(おおしお へいはちろう)」って、何者なの?というところから既に忘れていた私です。乱といえば「島原の乱」とか「応仁の乱」とか、あまり人名が「乱」になってるイメージがないのですが、これの乱は「大塩平八郎」さんの乱なので、名前が強烈に記憶に残りますよね。

大塩平八郎は、江戸時代のお役人さんです。お勤め先は「大坂東町奉行所」。大阪勤務。役職は「与力(よりき)」で、町奉行、いわゆる「お奉行様」の補佐を務めていました。
西暦でいうと1830年頃のこと…この頃は政治の腐敗がものすごいことになっていた時代。しかし大塩平八郎さんは、とても正義感が強い人でした。黄金色のお菓子的なものが飛び交う世の中でも、絶対に不正を許さなかったというぐう聖だったんです!大坂の「大塩」さんといえば優秀な与力として有名人だったそうな。

そんな大塩さんが大阪に健在だった時代、運悪くものすごい飢饉が起こってしまいます。「天保の大飢饉」が…。気温が低かったり、洪水があったりで、全国的な凶作になってしまったのです。特に大坂では、餓死者が1日に100人~200人も出たそうです。大坂!大塩平八郎の勤務地だっっ!

大坂でどうしてそんなに被害が出たのかというと…原因は、やはり政治の腐敗のせいでした。大坂に蓄えられていたお米は、大坂の人々のためではなく、幕府に献上されてしまってたのです。「民がどうなろうと幕府の要望に応えれば良い地位につけるよねー」という、役人の私欲のせいでした。これに対して不正大嫌い大塩さんの堪忍袋の緒が切れてしまったのです。

大塩さんは当時は既に奉行所勤めを終えて隠居生活をしていましたが、私財を売り払っても民を救済しようとしていたのに、それすらも「売名行為だ」とか陰口をたたかれる始末…。政治はもうだめだ、正義の鉄槌を下すしかない…!と大塩平八郎は考えます。何だこの聖人君子!!?今の日本人にこのような気概はあるだろうか?しかしナイチンゲールも言っていたように自己犠牲による奉仕には限界があるのです。というわけでもう武装蜂起!!

1837年、大塩平八郎は、再三の訴えを退けた大坂町奉行所に対して、反旗を翻しました。政治の腐敗やら不正に関わっていた、いわゆる「豪商」の家に大砲をぶっぱなしたり、火をつけたりしました…武士が戦をしなくなって200年も経つ中での武装蜂起でした。今の私達くらいの平和ボケ(?)をしていてもおかしくないんですが…やっぱり食べるもののこととなるとどうしても許すことが出来ないのは昔からの日本人の性質なのかもしれない…。

大塩平八郎の乱は、成功したか失敗したかで言えば、大塩平八郎さんは追い詰められて爆死にて自害したので、失敗だったかもしれません。(ちなみに爆死した理由は、先人(松永久秀)と同じ。自分の首を幕府に引き渡すのを避けるためでした)
しかし失敗したとはいえこの事件は世の中を激震させました…何せ、幕府側の役人だった人が、天下の台所とまで言われる重要な土地である大坂で乱を起こしたわけですから。

この大塩平八郎の乱が鎮圧されても、民衆による蜂起は収まりませんでした。いわゆる「打ちこわし」というやつですね。これも日本史に出てくるワードです。
幕府は民衆のために動いてくれない、民衆のために動いてくれた人を死なせた、という事実は、民の間に「幕府なんて信用できない」という考えが広まっていくのでした…。いわゆる「民忠」が0です。

そしてこのあとどうなっていくかというと、幕末へと繋がっていきます。幕末の倒幕運動は突然降ってわいたのではなく、このように徐々に表面化していったってわけなんですね。
中学生の時みたいな、世界史も日本史も地理も全部社会で習ったような時って、一定期間の歴史を習うとその後、全く別の地域の歴史を習うことになったりするので繋がってないかのように思ってしまうのですが実際は続いているわけですよね。まぁ日本史をずーっとやってると飽きてくるっていう事情があるんじゃないかなって私は思う。うん。世界史とか挟んだほうが一区切り感はあるけど。でも歴史に区切りなんて実際はないですもんねぇ…。

というわけで、聖人君子選手権があったらエントリー間違いなさそうな、大塩平八郎さんのお話でした。

私はこの後、甘いものを求めて冷蔵庫を打ちこわしにゆきますので、このへんで。
ではではでは!ではでは!

大塩平八郎の乱…ってなんだっけの巻_挿絵1

蘭丸の閑話をもっと読む
Prev | Next

雑談記事一覧へ

Studio POPPOをフォローしませんか?