ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

166日目 徳川御三家城下町と原子力城下町

2017-03-19 01:07:10 | 北関東
平成28(2016)年10月9日(日)


水戸にはまだしつこく纏わりつきます。

あまりそんな雰囲気を感じさせないのだけど、水戸はれっきとした城下町。
最後は水戸城址を廻って終わりにします。

三の丸西側の空堀→
水戸城は鎌倉時代の初期に築かれ、豊臣秀吉の天下統一直後には佐竹氏54万石の城下町となるも、江戸時代になるとご存知徳川御三家・水戸家が治める。

↓三の丸に入りますと正面に立派な建物がありますが、これは昭和5(1930)年に建てられた茨城県庁の旧本庁舎。

今の本庁舎はやたら離れた地に移転してしまっていて、駅から遠い県庁としては、恐らくぶっちぎりで日本一でしょう。

対照的に、三の丸敷地の片隅に借りてきたネコのように佇むは水戸市役所の臨時庁舎。
(623)茨城県水戸市役所
前にも触れましたが、本庁舎は解体されていて各部署があちこちに分散されております。
となるとどこでもいいのですが、この建物を以て水戸市クリアとします。

かつては議事堂だっという「茨城県立図書館」→
愛媛の田舎の我が一族郎党のお墓に「常陸国・6万石の某城主○○豊前守を元祖とし、江戸時代初期に当地に移り住んだ」という碑文が書かれているので、その確証を得るべくこの図書館で郷土史を片っ端から調べたことがありました。
ま、はなっからその伝承は信じちゃあいませんでしたけどね(一族皆もそうだと思う)、結果もお察しのとおりでございます。

弘道館正門→
弘道館とは、第9代藩主徳川斉昭が天保12(1841)年に設立した藩校で、全国の数あるそれらのうちでも最大規模のもの。
ただ、その中には以前入った事もあって今回は入りません。

弘道館への道すがらにある、復元された「八卦堂」→
ここには建学の精神の象徴である弘道館記碑を納められているのですが、戦災で本堂が焼け落ちてしまったにもかかわらず、碑だけは(気合いで?)守りぬいたのだと。

二の丸へ。
水戸市立第二中学校門脇に建つ「大日本史編纂之地碑」→
偕楽園には「完成の碑」があったけど、途中で編纂場所を変えたってこと?

本城橋→
橋の下は空堀を走るJR水郡線。
向こう側はが本丸跡で水戸第一高校があって、その敷地には水戸城唯一の建築遺構である「薬医門」があるのですが、見忘れた!

坂を下りてくると、黄門様が生まれし「義公生誕之地」があります→

ようやく水戸駅に戻って参りました→

↓水戸駅北口のペデストリアンデッキから眺める「黄門さん通り」でございます。

多大な時間と労力をかけて廻った水戸市ですが、それだけの価値のある町だったというのが私の感想です。実に楽しい街でした。

電車に乗って、東海駅で下車→
東海村という自治体にある駅ですが、「東海」というと日本では愛知県あたりがイメージされるので何だか違和感を覚える。
当たり前ですが、「日本海ではないニダ、東海ニダ」とイチャモンを付けている某半島国家式の読み方でもない。
村名の由来は、水戸藩士・藤田東湖が詠んだ『正気の歌』にある「卓立す東海の浜」から。

それよりもここは何と言っても、昭和32(1957)年に「日本で最初に原子力の火が灯った村」。
そして「東海村」は世界的に知られた地名なんだとか(某事故があったからかな?)。

ただ、村で特に見たいものはなし。
沿岸部に行けば、名所案内にあるとおりのものがあったりするのだけど、なにぶん遠すぎ。
なので、駅周辺をぶらついてここは終わり。

山側の駅舎→

海側の駅前→

村役場近くの「原研通り」→
他にも「原電通り」「動燃通り」があったりと原子力押しはかなりのもの。

↓それはそうでしょう、役場にあったこれらを見る限り、村は原子力と一蓮托生だと宣言したのだから。
 
でもその揺るぎない思いは平成23年3月11日までで、ここから僅か北100kmの所で起こった事態に、現村長さんは考えを変えたみたいです。

(624)茨城県那珂郡東海村(むら)役場
村にしてはダブつきすぎの人口約38,000人。
おまけに財政力指数は、平成26年時点で全国第10位を誇る超リッチな村。

↓7人で構成される、村のマスコットキャラクター「イモゾーファミリー」の一員である「イモゾー」です。


 

参考・カッコしてあるのはこれまで行った所→


最新の画像もっと見る

コメントを投稿