ポポロ通信舎

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戦争で隠された2つの地震

2016年07月16日 | 原発震災・原発問題

先の戦争末期、東海地方をを襲った2つの巨大地震。なんとその震度は7。
戦時報道管制下、地元の新聞社、中部日本新聞はどのように報じたのか2014年8月発行の『戦争に隠された震度7』(木村玲欧著 吉川弘文館)を読み詳しく真相を知りました。

1944年(昭和19年)12月7日13:36 南東海地震 紀伊半島沖 M7.9
1945年(昭和20年)1月13日03:38 三河地震 内陸直下愛知県三河 M6.8

震度はいずれも最高値7。
翌日の新聞はベタ記事、写真なし「被害はほとんどなし」

実際は東南海地震が死者行方不明1,223人、三河地震の死者は2,306人。
二つの地震は意図的に伏せられた。そのため今でもほんの一部の人以外、地元に住む人たちでさえ大地震があった事実を知らない人が多いといいます。

地震は中京工業地帯で中島飛行機、三菱航空機など軍需工場の被害も大きかった。「今回の震災禍は戦争遂行上、軍人の士気への関係から」を理由として報道管制が敷かれ被害状況などの報告は禁止されました。

当時の報道の特徴は
(1)震災報道は最終面(扱い極力目立たぬように)
(2)サイズはベタ記事(=活字がべったり詰まった小さな記事)
(3)写真はダメ。
(4)数値はダメ。「被害微小」などのあいまい表現のみ。

そんな中、厳しい検閲を受けながらも地元紙は被害者への生活支援情報余震などの啓蒙に努めたといいます。

戦時中は、すべての情報は大本営発表のみ。それ以外は気象、災害情報も軍事機密と同じように扱われ検閲の対象となっていた。

311の原発震災でも、これに似た報道制約はなかったでしょうか。事実を過小に見せようとして、あいまいな表現でお茶を濁し、最新機器で得ていた予測結果(SPEEDI)を知らせず、大量に用意されていたヨウ素剤も使われず仕舞い。

震災報道の木鐸、東京新聞

戦争で隠された地震を、できる限りの範囲で報道をつづけようとした中部日本新聞のたたかい。今日も多くのマスコミが原発震災を取り上げることが少なくなっている重苦しい状況の中、「東京新聞」(中日新聞=中部日本新聞)が今も震災報道を緩めることなく果敢に発信している、もしかしたら過去の隠された戦時2地震から得たものを教訓としているからなのだろうかと思いました。

 

動画は著者の木村玲欧准教授(防災心理学)

 

戦争に隠された「震度7」: 1944東南海地震・1945三河地震
木村玲欧著(兵庫県立大准教授)
吉川弘文館


木村玲欧 兵庫県立大学准教授 「南海トラフ地震」

 

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