長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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軍師黒田官兵衛と石田三成と 天下無双の天才軍師・黒田如水の生涯いよいよ!ブログ連載小説5

2015年05月03日 07時13分26秒 | 日記











         尾三同盟


   松平元康は清洲城にやってきた。永禄五年(一五六二)正月のことであった。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。
 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。
「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」
 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。
「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。
「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。
 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。
  織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。
 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」
「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。
 また、信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。
 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃コースを直線コースへとかえていた。




       サル


  猿(木下藤吉郎)が織田家に入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。
「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。
 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。
 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。
「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。
 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。
「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」
 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」
 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。
 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!
 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!
  ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、
「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。
 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。
「なにっ?!」
 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。
 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。
「なぜ上にあがらない?」
 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。
 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。
 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。
 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。
 こんなエピソードがある。
 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。
 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。
「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。
 また、こんなエピソードもある。戦場にいくとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。
 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」と飄々といった。 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。
 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、
「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。
「木下藤吉郎の部隊でごさりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。


         石垣修復


  織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。
 あるとき、信長は城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。城下町では千宗易が茶碗を売っていた。小一郎(秀長)は「まけてくれ」といってねぎっているところだった。信長は茶碗を千宗易から百貫で買っていた。藤吉郎(秀吉)はそれをみてショックをうけた。たかが茶碗に……百貫もの銭を……
 藤吉郎には理解のできないことであった。
   ある日、藤吉郎が「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」とにやりと猿顔を信長に向けた。
「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。
 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。
「サル、やってみよ」信長はいった。サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。
  信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。
 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。
「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。
「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。
 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。
「……わかった。しかし、人質はいないのか?」
「人質はおります」藤吉郎はいった。
「どこに?」
「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。
 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」
「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。
 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。 この頃、明智光秀は越前で将軍・義昭と謁見した。サルは信長の茶屋によばれ、千宗易のつくる茶をがばっと飲んだ。「これ、サル!」信長が注意すると、千宗易は笑って「かましまへん、茶などでう飲んでもええですがな」といった。

         竹中半兵衛


  信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、徳川二代目秀忠の妻・お江、京極高次という大名の妻となる初である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。

「サル!」
 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。
「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」
「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でごさりましょう」
「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」
「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」
「ほう?」
「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」
「気にいった!」信長は膝をぴしやりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」
「かしこまりました!」
 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。

  汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。
「理由は? 理由はなんでござるか?」
「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」
「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。
 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。
 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。
「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」
 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。
「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。
「かたじけのうござる!」
「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」
「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」
「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」
 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。
黒田官兵衛も同じように秀吉の叡智・英雄性を見抜いたという。官兵衛も「私は信長さまではなく、秀吉殿の軍師にございまする!」といい秀吉を感涙させている。

         墨俣一夜城


  美濃完全攻略、それが当面の織田信長の課題であった。
 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には木曾川、長良川などの川が天然の防柵のようになっている。そこからの攻撃には拠点が必要である。
 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?
 弟の小一郎はサルに「まず誰かにやらせてみて、それから兄じゃがやればよい」と忠告していた。しかし、誰かが城をつくってしまったら…。弟はいった。「誰かが出来ることを兄じゃがやっても仕方ないじゃろ? 誰も出来ないことをやれば兄じゃの天下よ」
 かくして、信長の家臣団は墨俣に城をつくることができないでいた。
「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」
「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。
「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」
「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」
「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」
「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」
「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」
「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。
「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」
「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」
「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」
 信長は唖然とした。
 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。
「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。
「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。
 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、城は一夜にして完成した。墨俣一夜城で、ある。

「よくやったサル!」
 信長は、夜、墨俣一夜城に着いて、秀吉をほめた。
 一同は平伏する。しかし、秀吉の弟・小一郎は「御屋形様! 褒美を下され!」と嘆願した。「こら! 小一郎! 黙れ!」秀吉は諫めた。
「われらは褒美のために働いたのでござる! 褒美を!」
 小一郎は必死に嘆願した。秀吉は黙ったままだった。信長は冷酷な顔でふところに手を入れた。もしや、刀を抜いて、小一郎を……斬りすてる?!
 一同は戦慄した。
 しかし、信長は袋にはいった小さな茶壺を秀吉に手渡し「ご苦労であった」といった。そして場を去った。左吉はそれをみて、銭じゃなく、……茶壺? そんな…と落胆した。 だが、秀吉は一同に笑顔を見せた。”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔であった。……こんなの…屁でもないさ……

 官兵衛の幼妻・光(てる)は「わたくしは逞しい男が好きでござりまする」
 と旦那にいう。官兵衛は生涯側室をとらず光だけを愛した。「でも、頭の賢い男はもっと好きであります」
官兵衛と光の夫婦仲はよかった。だが、播磨姫路の小大名・外様大名でしかない。そこで信長への接近、となる訳である。

         4 将軍義昭と光秀


         稲葉山城攻略



永禄7年(1564年)1月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が19歳のとき、美濃(岐阜県)では、竹中半兵衛が美濃を支配する主君・斎藤龍興の居城・稲葉山城を1日で乗っ取っていた。
斎藤龍興の祖父・斎藤道三は「美濃のマムシ」「マムシの道三」として恐れられていた。
が、斎藤龍興は一部の家臣だけを寵愛し、美濃(岐阜県)の政治は腐敗しており、竹中半兵衛は冷遇されていた。
そのようななか、永禄7年(1564年)1月、新年の挨拶で稲葉山城を訪れた竹中半兵衛は、新年の挨拶を終えて稲葉山城を出たとき、城壁に居た斎藤飛騨守の兵に小便をかけられた(このエピソードは後世の創作だと思われる)。
竹中半兵衛の妻の実家は、西美濃3人衆の1人・安藤守就で、美濃の有力な武将だった。
そこで、小便を駆けられて世直しを決意した竹中半兵衛は、妻の実家である安藤守就に直訴し、稲葉山城の乗っ取り計画への協力を依頼した。
そして、竹中半兵衛は安藤守就の協力を得て、計18人で白昼堂々と稲葉山城に乗り込んで、斎藤飛騨守を斬って小便をかけられた恨みを晴らし、稲葉山城を占拠した。
稲葉山城を居城する主君・斎藤龍興は、竹中半兵衛の謀反を敵軍の襲来と勘違いして稲葉山城から逃げ出した。
隣国・尾張(愛知県)の織田信長は竹中半兵衛に
「城を明け渡しくれれば、美濃の半分を与えよう」
と申し出たが、竹中半兵衛は
「主の斎藤龍興を諫めるため、一時的に城を預かっているだけである」
と答え、織田信長の申し出を断った。
竹中半兵衛は稲葉山城の占領は半年ほど続けたが、最終的には斎藤龍興に稲葉山城を返還し、隠居した。
(注釈:実際は安藤守就の主導で起した謀反だったが、同調者が出ず、美濃全体に謀反が広がらなかったため、安藤守就らは謀反を諦めたという説が有力になっている。)
信長は「竹中半兵衛?黒田官兵衛?」と彼らが仕官する前に秀吉にきいた。「使える者か?」秀吉は「つかえまする、必ずや御屋形さまの「天下布武」の役に立ちましょう!」
稲葉城の返還により斎藤龍興は美濃(岐阜県)の大名に復帰したが、その後に織田信長に侵略され、伊勢(三重県)へ逃げた。
一方、稲葉城を斎藤龍興に返還して隠居した竹中半兵衛は、その後、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家臣となり、黒田官兵衛と共に木下藤吉郎を支える軍師となるのであった。この竹中半兵衛は黒田官兵衛とともに「両兵衛」「軍師・竜虎」と呼ばれるまでになるのだ。
黒田官兵衛は竹中半兵衛より自分は「器が小さい」と嫉妬してもいたという。尊敬と嫉妬、その一方で、竹中を「聖人か?!」と嘲笑もしている。
竹中半兵衛が「物事を治るのは義、仁であり、至誠を持って動かざる者あらん」というと「そんな綺麗ごとでは人間は動かん!」と官兵衛は反発した。
「人間は利益と恐怖に弱いものだ。至誠を持って動かぬなら「利益」や「恐怖」で動かせばよい。人間の値札に訴えるのだ。人間の値札は百花繚乱、ある人間は銭かも知れない。ある人間にとっては城と大名職かも知れん。ある人間にとっては女子や地位かも知れん。そういう値札に訴えれば9割以上の人間は動くものだ」
「ならば孔子の論語もいらぬと?」
「いや、論語と算盤だ。どんな綺麗ごとをいったところで銭がなければ一握りのおにぎりひとつ買えん。それが現実だ」
「いやはや、官兵衛は現実主義か」
「竹中さんのように本ばかり読んでいる訳にはいかんよ」
 竹中半兵衛は押し黙った。
 歴史通なら知っていることだが、秀吉の軍師・竜虎、軍師・両兵衛のひとり、竹中半兵衛はやがて病により早逝する。官兵衛は半兵衛の死に泣いたというが本当だろうか?


  稲葉山城の攻撃にいよいよかかった。
 しかし、城は崖の上に建ち、まるで天然の要塞であった。せっかく墨俣に拠点を築いても、稲葉山城の攻撃は難行に思われた。
 信長が「くそったれが」と拳をつくっているところ、西美濃三人衆と呼ばれる斎藤家の重臣の連中から、「お味方したい」という内応の使者がやってきた。信長は目を輝かせた。 西美濃三人衆というのは、大垣城主の氏家ト全と、北方城主の安藤道足と、曽根城主の稲葉一鉄のことである。墨俣城を築いても、この西美濃三人衆に背後から襲われたら、斎藤家との間ではさみ討ちにさせてしまう。信長はそれを危惧していた。
 そんなところに内応の伝達があったのだから、信長は喜んだ。
 信長はすぐに、村井と島田という武士に「三人衆から人質をとれ」と命じた。
 サルをよんだ。「サル、稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ」
 藤吉郎は驚いた。「しかし、せっかく西美濃三人衆が味方したいと使者をおくってきたのではありませんか。ここは三人衆がやってきてから、攻撃したほうが情報も得られて得ではありませぬか?」「それが普通の人間の考えだろう。しかし、西美濃三人衆の応援を得てから稲葉山を落としたのではわしの面子がすたる。なぜお前に墨俣城をつくらせたのかもわからなくなる。お前が指揮して稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ。わかったか!」 藤吉郎は「ははっ!」と平伏した。いいようもなく顔を紅潮させていた。自分が…必要と……されている。「かしこまりました!」サルは叫ぶようにいった。
  サルはさっそく蜂須賀小六を呼んだ。
「親方、もう一度力を貸してくれ」
「いや、いいが……もう俺は親方ではない。頭はあんただ、藤吉郎殿」
「浮浪のおり、貴殿には世話になった。いつまでもあなたは親方だ」
「稲葉山城をせめるのか?」蜂須賀小六はするどかった。
「さすがは親方、その通り!」
「いやに簡単にいうじゃねぇか。あの城を落とすのは困難だよ。正面からじゃ無理だ」
「なら裏からならどうじゃろうか?」
「手はあるだろう」
「では、一緒にまいろう」藤吉郎は、成人して役にたつようになった異父弟小一郎(のちの秀長)をよんで「小一郎、おまえは大手から攻撃しろ」と命じた。
 城の正面の大手からの攻撃は囮である。木下蜂須賀本隊は背後から攻撃しようという算段だった。蜂須賀小六は選び抜かれた尖鋭部隊をつくり、稲葉山城の背面の山道をすすんだ。険しい道だったが、蜂須賀小六は難なく進み、藤吉郎も本当の猿のようにあとをついて進んだ。それぞれの腰には兵糧をさげ、瓢箪をぶらさげていた。瓢箪には酒がはいっていた。……こんな危なっかしい仕事、しらふでやってられるか。一同は笑った。
 木下蜂須賀本隊は谷や崖を抜けてすすみ、ちょくちょく酒をのんだ。
 やがて、山を越えて見下ろすと、稲葉山城がみえた。山からみると、背面の警護は空だった。木戸に門番さえいない。
「これならば落とせる」藤吉郎はにやりとした。
 やがて城にはいると、さすがに城兵たちがばらばらやってきた。蜂須賀たちはそれらを斬り殺した。その兵たちの具足を剥ぎ取ると、斎藤家の兵士に化けた。そして、そこら辺にある柴や薪に片っ端から火をつけた。発見した薪などをもって大手の方へ運ぶふりをした。まだ、斎藤方で気付いた者はいない。
 藤吉郎は皆が飲みほした瓢箪を竹の先にくくりつけて、塀の中からあげて、大きく振った。瓢箪が揺れる。蜂須賀小六の部下は稲葉山城の水門をあけていた。瓢箪は突撃の合図である。信長はそれをみて「突撃!」と、劇を飛ばした。信長軍は協力なマン・パワーで城に突撃し、陥落させた。驚いた城主・斎藤竜興は城を脱出した。長良川から船でどこかへいった。稲葉山城は完全に信長のものになった。
「御屋形様!」サルは先に瓢箪がくくられた竹をもったままだった。「城をおとしました」「サル」信長は呆れて「きさまはその瓢箪がえらく気にいったようだのう。これからはその瓢箪を馬印につかえ」といった。
「ははっ!」サル平伏した。
「ただし、最初はひとつだけじゃ。手柄をたてたらひとつひとつ瓢箪をふやせ」
「ははっ! このサルめは手柄を沢山たてまして、瓢箪を百にも千にもいたします」
「大口をたたくな。まぁ、サルよ、お主はよくやった」信長はサルを褒めたてた。
 藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして笑顔になり、また深く平伏した。信長軍の重臣たちは、サルめ、と不快に思ったが口にはださなかった。こうして、のちの秀吉の知謀によって稲葉山城は陥落し、斎藤氏から領土を奪えたのである。
  さて、ここでふれたいのは藤吉郎(秀吉)よりもむしろ小一郎(秀長)である。稲葉山城(岐阜城)を攻めたとき、秀吉は少数で城に潜入し、合図によって、小一郎(秀長)の主力部隊が雪崩れ込むという戦略だったが、そのときの小一郎のタイミングや方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」と褒めている。 いわれるままに実行し、成功させる…これは補佐役の鉄則だ。しかも、小一郎(秀長)は死ぬまで「補佐」に徹した。もしこの男に「いずれは兄と同じように大名に…」「いずれは兄の次の天下人に…」などという欲があったら到底できないことである。
 秀吉は朝鮮出兵という過ちを晩年犯したが、それはこの”よき弟”が早死にした結果とみる歴史家が実に多い。その意味で、小一郎は実によい弟で、ナンバー2だった。
 もし、秀吉にこの弟がいなかったら……果たして天下をとれたろうか?

         足利幕府


  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。                   
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝は軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


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