自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ムーヒンとクラスノシチョコフ/パルチザン戦/アムール州事件

2017-03-07 | 体験>知識

出典 石光真清『誰のために』

調書「ムーヒン」(手書き 第12師団司令部 複写)によれば、ムーヒン(電気工、妻帯、41歳、左足凍傷痛)は変装のため理髪しヒゲをそった。その前は栗色のほほヒゲと帽子で変装していたという。隠れようとした学校で捕まったが捕らえたのは日本兵である。上掲の写真はコザックを主役に配して日本軍を脇役に見せる効果を狙った広報用のものである。
審問者はアベゾルーコフで「隠していることがあるがムーヒンを信ぜんことを請う」とコメントして署名している。日付は1919年3月8,9日である。隠し事「塗抹」とは仲間の名前、居所であろう。たとえば、クラスノシチョコフは知っているが「グラベリソン」なるクラスノシチョコフは知らない、といっているようなことを指すものと考えられる。
私見では「逃走を企てたため路上で射殺」は背後に写っている主役日本軍の捕虜殺害を正当化しようとする口実である。捕らえて白軍に渡して処分させるのも日本軍の常套的やり方だった。
【註】史料中の地名人名のカタカナ表記の微小な相違を統一する能力は私にはない。想像を働かして読んでほしい。

1918年8月16日第一陣を浦潮に上陸させた日本軍は赤衛軍の抵抗を排除しつつハバロフスクを目指して破竹の勢いで進撃した。シベリア出兵中唯一戦争らしき会戦があったクラエフスキー会戦でボルシェヴィキは旧軍の装甲列車と砲艦を出動させているが、兵士は制服もなく訓練が効いていない住民兵が主力だったから、その部隊は赤軍ではなく赤衛軍(元の守備隊とか艦隊のソヴィエト派)とパルチザン部隊とみるべきであろう。沿海州にはまだトロツキーの赤軍の兵制、兵備は及んでいなかったと思う。
日本軍とコザック・ウスリー支隊(アタマン=カルムイコフ)は2週間でハバロフスクを占領した。これ以降ボルシェヴィキはパルチザン部隊で戦うことになった。

1918年8月末ハバロフスク会議で極東人民委員会議(ムーヒンも参加)は撤退して再起を図ることを決議した。議長クラスノシチョコフはアムール州ゼーヤ市に逃れ人民委員会議を解散し変装してタイガに身を隠した。
ムーヒンはアムール州全域で労働者、農民を組織して日本軍とコザック部隊に対する反乱とソヴィエト政権の再建を準備する活動に入った。日本軍は下掲の写真をもとに手配書をつくって二人を捜索した。
真ん中巻紙を持つ二人がムーヒンとクラスノシチョコフ 1918.7.20

出典 http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_muhin.htm
原典『欧亜列強 大戦写真帖』 帝国軍人教育会編、大正通信社、大正8年

ムーヒンは、ハバロフスク陥落の教訓を生かしてアムール州でパルチザンの隊長を糾合して将来の一斉反乱を準備した。活動地域はゼーヤ河両岸と東のザヴィタヤ河両岸に挟まれた沃土地帯である。かつては清国領で「江東64屯」とよばれた所か。1918年当時はロシア人の移住村になっていた。


出典  児島襄『平和の失速 〈大正時代〉とシベリア出兵』

ムーヒンは、調書によれば、ガーモフ率いるコザック隊と日本軍が武市に進軍して来た1918年9月半ば以後も変装して市内に潜伏していた。
石光は部下が「来た」と慌ただしく報告しに来たとき「ほっといてやれよ。なあ・・・立場こそ違うが、彼も愛国者だ。日本軍との衝突を避けたのも彼の努力だよ」と抑えている。その時10月半ばに撮られた写真に、宣撫説教師太田覚眠に耳を傾け質問しようとする大男ムーヒンが写っている。

 
出典  石光真清『誰のために』 原典  太田覚眠『露西亜物語』(1925)

ムーヒンはアムール州を2区に分け北部の「バヴーリ」村と南東部のイワーノフカ村を二大根拠地として4カ月間村々を巡回しながら宣伝し募兵した。
1919年1月上掲地図各地で蜂起と討伐が頻発した。1月7日マザーノワ、12日ポチカレオ、17日アレクセーエフスク、25日イワーノフスコエ、26日チェレムホ-フスコエ、27日チワーノフスコエ、2月6日タムポフカ、等の付近で蜂起・討伐戦があった。
2月16日イワノフカから武市に潜入して全体を指揮統率した。信頼する石光真清とアレクセーエフスキーが武市を去った直後である。もはや武市は微温的政治環境ではなかった。第12旅団が司令部を置きいわば戒厳令下に等しかった。
武市の「避難所ガ包囲ノ状態ニ陥リ日本兵ノ現ルルヤ」遁れて転々と避難先を替えた。
3月8日学校に着くとここは監視されていると言われた。2階に上がって窓際から外を見ると日本兵が入ってくるのが見えた。1階に降りて捕縛された。

反乱は、日本軍とコザック支隊の討伐行との絡みで、統一を欠き散発的な蜂起に始終した模様である。一般に動乱は強硬派の蜂起で燃え上がる。
以下は「調書」にあるムーヒンの無念の表明である。
武市での今回の反乱準備はムーヒン抜きで行われた。自分は労働組合に個別の決起を戒め続けて来た。ムーヒンが留守している間は強硬派軍事委員が主導した。振り返って言えば前年の武市3月事件の拘禁中の決起も軍事委員会が指導した。
農民はムーヒンを父と慕い頼みにしていた。「父トハ余ノ綽名ナリ。余ノ予期シタル反乱決起ハ余ノ通知ヲ待タズシテ開始セラレタリ」 
農民はムーヒンが「常ニ事ヲ案出シ自ラ遁レル」と批判した。ムーヒンは自分が司令部、市中に居たのは「コトヲ挙グルノ際、ソノ場所ニ居ランガ為ナリ」と応じた。
しかしこの反乱は時期尚早につき起こせなかった。蹶起の時期を決定すのは難しい、とムーヒンは言う。それは主として「露国及ビ外国トノ政治的関係如何ニ因ルモノナリ」

日本軍は浦潮から発してたちまちのうちにシベリア鉄道沿線を占領しながら西進しザバイカル州チタのセミョーノフ軍と合流した。総数73000名を出兵させたが延べ員数だろうから半分と見積もっても広大なシベリアの鉄道の点と線を抑えた程度であっただろう。日本軍は、ナポレオンを退却させた冬将軍を味方にしたパルチザン部隊のヒット&ランの攻撃に悩まされた。
ムーヒン指導のアムール州の抵抗がもっとも強力で最後まで執拗であった。蜂起して討伐隊に追跡されるパルチザン主力部隊と拠点の村々の戦いをみてみよう。
[註] 参考史料は児島襄前掲書と高橋治『派兵』である。高橋氏が出版を勧めた松尾勝造『シベリア出征日記』に負うところ大である。冷たい統計に熱い血を通わせてもらった。

ムーヒンは調書でマザーノア事件にちょっと触れている。日本兵たちがウオッカを求めて酒商とその家族を殴打したのがきっかけだと知った、と。
1月7,8日、同村の農民は蜂起しソハチノ村のパルチザン隊の協力を得て日本軍守備隊兵舎を占領した。梶原守備隊50余名は「戦死6, 負傷7, 行方不明4, 凍傷34」の不名誉を記録した。蜂起は討伐隊によって鎮圧され逃げ遅れた村民は殺された。日本軍は参謀本部出兵史によれば膺懲のため「過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」 
2月11~13日、日本軍はザウィタヤ河東部のインノケンティエフカ村を拠点とするパルチザン部隊の討伐に向かった。第1陣米谷=高野隊100人はゲリラの待ち伏せ戦術と零下30度の厳寒、疲労で敗退した。戦死行方不明4、負傷10、凍傷26・・・出迎えた当番兵松尾勝造は死傷者の惨状に驚き怪しみ復仇を誓った。
凍傷患者は激しい痛みのために泣き叫ぶ。
死体は頭部粉砕、シャツ1枚。この様子は以下の負け戦に共通していて日本軍の報復心をいやがうえにも燃やした。貧しい農民兵には日本軍の防寒具は宝物に等しかった。パルチザンは武器や武具を戦利品で補充した。
第2大隊代理末松少尉率いる討伐隊150名はギリシア正教徒の村インノケンティエフカを早朝野砲2門で攻撃した。パルチザンは馬や橇で逃げ出した。主力は前日に離村していた。「斯クテ討伐隊は終日村内ヲ捜索シ、小銃15挺を押収シ・・・」 同夜そこに「宿泊セリ」
参謀本部出兵史が一方的な勝利をこともなげに記した陰に、渦中で虐殺の実行者、目撃者になった松尾勝造一等卒の阿鼻叫喚を記した『シベリア出征日記』(1978年)が在る。
燃え盛る村で逃げ損なったものが盛んに撃ってくる中、抜剣した士官、曹長を先頭に、兵士が着剣して怒涛の如く突撃した。「硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった」
両手を挙げる者拝む者を容赦なく殺害。数名居た正規兵は本部に連行し審問の上突く刺す斬首のなぶり殺し。ガラスや戸の壊れる音、屋根が焼け落ちる音、家が焼ける風音、豚の焼け死ぬ泣き声、走り回る馬の足音、妻の泣き叫ぶ声、擬音語入りで真に迫った描写が続く。
ここで私ははっと気づいた。その時心が鬼だったと述懐する記録者が目や耳に一生焼き付いて消すことのできない光景と号泣にまったく触れてないことに。それが何であるか、また記録者の掻きむしりたい胸の内は、想像に任せるしかない。

完全な敵場内に乱入したときの誰が敵か分からない恐怖心、復讐心、「露助め」がという侮蔑感が勝利の高揚感で勢いよく燃え上がったときの異常心理と行動はいつの時代でもどこの国においても世界共通である。記録者は元寇による壱岐対馬の虐殺もかくや、と想像した。私は島原の乱の原城落城を想った。 
2月17日堀大隊は「アンドレーフカにて約一千の敵と交戦し死者[堀少佐以下]将校2名, 負傷将校4, 下士卒22名戦死、行方不明18名なり」 村は焼かれ無人化した。
2月20日高橋少佐支隊、周辺で一番大きいビッシャンカ村宿泊。零下44度、凍傷患者多し。「一週間前、二千の兵を連れてムーヒンが来たが一夜泊まって何処かへ行ったと言ってゐた」 ちなみにムーヒンが武市に潜入した日は2月16日である。
2月26,27日、日本軍はパルチザンの主力部隊数千名(指揮官ドルゴシェーエフスキー)を追った。ユフタで遭遇して香田小隊45名、ついで田中大隊支隊162名が全滅した。続いて森山小隊58名と西川砲兵中隊35名全滅。貫通銃創と刺創にもかかわらず生き返った森山小隊山崎千代五郎の著著『血染めの雪』(1927)の戦死者名簿による。
山崎は慰霊碑建立に生涯をかけた。著書販売と講演会で全国を巡って資金をつくった。その間137回憲兵に連行された、と作家高橋治は書いている。
3月3日高橋大佐大隊と高橋少佐支隊が追い続けていたパルチザン主力部隊をハサミ討ちにして形勢逆転、総崩れにした。敵はパーロフカ村から逃げ出し橇で追撃を振り切った。参謀本部出兵史は当夜そこに「宿泊セリ」とだけ記録したが、村は焼き払われて無人になった。皆殺しだった。
高橋治は『派兵』(1976)で、老兵たちにインタヴューを試みたが、この件だけは表情を硬くして語りたがらなかった、と云う。ヴィエトナム戦争の「ソンミですよ、南京大虐殺ほど大規模ではなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」(第14連隊谷五郎)

3月9日 武市でムーヒン密殺
上掲松尾日記では同郷友人の話として、夕方「釈放」と偽って「走って逃げかけるところを第二中隊の兵2名が後方より射撃したら、4発の弾丸を背に食らって即死せり」と記している。松尾日記に従えば捕虜は銃殺か斬殺が当たり前だった。疑わしい者は殺された。
3月22日、日本軍はアムール州パルチザンの巣窟視していたイワノフカ村に帳尻合わせの清算に出撃した。
「犠牲者は無力な村民だった。村の記録で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
作詞作曲者不詳の〈炎のイワノフカ〉は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。
♪ 生きてて良かったね/私みたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと...」( ロシア住民虐殺で追悼式典 イワノフカ事件90年 共同通信社 2009年7月12日配信)

3月28日、山田旅団長発の「過激派掃討計画」は「去就に迷える農民」の信頼を得るため「家屋の焼夷破壊」を禁止し「老若婦女に対する言動を慎み」略奪を戒めている。新たな敵をつくることを懸念し始めたようだ。
短慮浅慮と言おうか、上記の焼き払いはそれまでの派遣軍大井師団長、山田旅団長の〈敵か味方か判別できないから敵対するものあるときは容赦なくその村落を焼棄すべし〉という指令に呼応していた。
大虐殺は指揮官次第だ、と私は結論し持論としている。

ムーヒンの死とイワノフカ村壊滅をもってアムール州パルチザン戦は調整期を迎えた。主力部隊は帰村派と継戦派に分裂し、戦士も千人位に半減した。さらにパルチザンは大隊、中隊規模の編成をやめてそれを小さなゲリラ隊に細分化した。その分大きな戦闘がなくなる。
いよいよバイカル湖東西の戦場に目を転じよう。そこにクラスノシチョコフが居る。コルチャーク政府の囚人として。

【出会いと和解と鎮魂】1994年シベリア抑留者の慰霊碑を建てようとイワノフカの埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会斎藤六郎会長「日本人の墓はありませんか」 ゲオルギー・ウス村長「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
翌年日露合同の慰霊碑が建立された。今なお不完全な名簿を補充しようと努めている日露遺族の執念と鎮魂の思いに頭が下がる。

 
出典  http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

 



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