自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史

2017-05-14 | 近現代史 戦前(大正時代)

 出典  厚生省『援護50年史』 満州国行政区画と各省別日本民間人死亡者数 

朝鮮独立運動(本部上海)の国外根拠地は浦潮(沿海州)と間島(満州)であった。浦潮新韓村はシベリア派遣軍による四月惨変で壊滅した。
間島琿春掃討を観てみよう。間島は満州東端にあり東の国境を越えるとロシア領沿海州で浦潮に至る。南の豆満江を渡ると朝鮮(日本国)である。
元々朝鮮人が多い地域だったが韓国併合後朝鮮人難民の避難地として人口が急増、朝鮮独立軍の根拠地になった。一応奉天軍閥・張作霖の支配下にあった。日本軍が越境討伐の機会を狙っていた。沿海州から撤退した今、朝鮮独立運動の芽を摘むことが軍の至上命令になった。

1904年~ 「韓国=緩衝国」期 
日露戦争は韓国争奪戦であった。日本は、日韓議定書、日韓協約を武力を背景に韓国に呑ませて同国を保護国化した。

1907年伊藤統監と長谷川好道司令官は韓国軍を強制解散させた。元韓国軍将兵と民衆による「義兵闘争」が頻発し、日本軍はその間「掃討」に苦慮し、戦闘地域の村落を焼夷した。
日本による討伐の実態を、ロンドン『デイリィ・メイル』の特派員、
カナダ人ジャーナリスト・マッケンジーが戦闘地域に潜入して貴重なルポとして遺した。百聞は一見に如かず。彼が撮影した写真と多分類書のない記事を観てみよう。The Tragedy of Korea, NY, 1908. 渡部 学 訳に拠る。1907年の秋口の田舎の風景から始まる。
ソウルを馬とロバで発つと眼前に稲と大麦が実り豊かに穂を垂れた「絵のように美しく平和な」村々があった。どこで訊いても「日本人は利川にいる」と同じ答えが返ってきた。山の峠に立つと、利川に向かう渓谷の村々は「すべて灰の山と化している」のを見た。利川はそうとうに大きな町だった。みな山に避難していた。
「小さなこの地方[忠清道]だけでも、その数一万から二万にも達する人びとが、自分の家をこわされたり、あるいは日本軍の乱暴に恐れをなして、山やまに避難していたのである」
義兵に冷淡か同情的であるかに関係なく殺されたり強姦されたりするので山に隠れる。強姦の「話をいくつも聞いた」「一人の日本兵が野菜売りの妻女を犯すあいだ、他の兵士は着剣した銃でその家を見張っていた」 「部隊の例外的な連中に限られたものであったろう」が村々の女性を山へ追いやる結果を招いた。 
忠州や原州のような都市も破壊され略奪されていたが「しかし、堤川の大破壊とはくらべものにならなかった。ここ堤川は、文字どおり完全に破壊しつくされていた」 「堤川は地図の上から消え去った」
堤川は「人口二千ないし三千を擁し、高い山やまに囲まれた盆地に美しいたたずまいをとっていた」 瓦葺の大きな家が建つ高官貴族の保養地だった。記者はイギリスのバース、チェルトナムを引き合いに出している。負傷して逃げられなかった男5人、婦人1人と子供1人が燃やされた。討伐軍の数人の戦死者に対する報復と見せしめだった。
(下) 見渡す限り焦土と化した堤川の街路

いよいよ義兵たちとの遭遇である。原州を過ぎると奇襲と隠れ家に適した「大部分が、切り立った絶壁のある狭くて曲がりくねった渓谷」があり、日本軍が迫りつつあるがまだ焼かれていない楊根(現在の楊平)があった。無人に見えた楊根だったが女性を除く大人と子供が寄って来、続いて義兵6,7人が現れる。
かいつまんで記述する。組織はない。資金は富裕層が出している。引率指揮は元将校、下士官がとっている。兵士は労働者、上流階級の青年[儒生?]・・・都市から来ている、変わり者は山の虎狩の古老である。歩哨は置いていない、住民が見張りの代わりになる、と言うが、その晩の宿泊を拒否されて住民と言い争いを続けている。記者は負傷兵の手当てを頼まれるが何もできない。まんじりともせず朝を迎えた。義兵たちは伝令を出して「イギリス人」に発砲しないように前方に伝えたあと出立した。
記者は彼らに迫る運命に同情した。基本になる銃が先込め銃*なのだ。
*わたしは幼少のころ大人が筒先から火薬と弾をさく杖で詰めるのをみたことがある。また13歳のころ手製でおもちゃの先込め銃を友達とつくって鉄片を発射して遊んだ経験がある。だから先込め銃が手間暇のかかる単発銃であることをよく知っている。
前日200の義兵が20の日本兵と戦い4名殺害した、味方の犠牲は2人と成果を義兵たちはこもごも語ったが、住民の話では死んだのは義兵5人(そのうち2人は負傷し呻いているところを銃剣で刺殺された)で日本兵は一人が刺傷を負っただけであった。
この地方の総指揮官が幕僚を連れて面会に来て武器弾薬の購入をとりもってほしいと懇願したが断った。また日本軍による包囲網の重要情報を前線の大佐から得ていたが提供しなかった。政治記者の徳義をまもったのである。従者のある者は見ておれない、護身用の銃をやってくれと記者に頼むのだった。
「日本の奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬほうがよっぽどいい」 死を覚悟した青年たちは礼儀正しく、目に輝きと微笑を溜めていた。かれらはまだ民主主義、社会主義のイデオロギーに染まっていない。根底に儒教思想があって、国と家を侵略者から護る大義は勝敗にまさる、と得心しているのだろうか。ヴィジョンがなくても義に生きる、だから義兵なんだ。そんな日本人が幕末にはいたことを想いだした。
それからあまり遠くない岩と砂ばかりの河原で著者が出逢った義兵を撮った世紀のスクープ写真がこれだ。「その写真は千万言の記述よりもずっとよく彼らの様子を示していると思う」

1909年秋、日本軍は 2 ヶ月間にわたる「南韓暴徒大討伐作戦」を全羅道で展開し、3期のローラ作戦「攪拌的方法」と焦土作戦で義兵団を壊滅させた。米作地全羅道では東学農民戦争の伝統が日本人農業移民に対する怨嗟で呼び覚まされたのだろうか。

この討伐戦は日清戦争時の東学農民戦争*の繰り返しのように見える。満州、沿海州に逃げ込まないように、ソウルから遠ざけるように、忠清道から南へ追って包囲網を縮めて最後は全羅南道沿岸と島々で息の根を止める。義兵の思想的基盤となった新興宗教東学は、このときには親日的な一進会と独立志向の天道教に分裂していた。もちろん天道教徒がキリスト教徒と共に独立のために戦った。
*東学教徒の死者が日本軍の日清戦争中の戦死者2,3万を上回ることは知られていない。川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべし」と命令した。捕虜、家族まで殺す皆殺しの報復は日清戦争に始まる。中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』 2013年

義兵損害数  
年  度   殺  害   捕  虜  
1906        82       145

1907     3,627       139
1908   11,562    1,417
1909     2,374       329
1910        125         48  典拠  朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』

1909年10月26日 安重根、ハルピン駅で伊藤博文暗殺
日本軍の苛烈な掃討により義兵運動は下火になる。沿海州、満州に逃れた義兵が細々とゲリラ戦で抵抗した。最後の一暴れは安重根による前統監伊藤博文暗殺であった。安重根は刑法ではなく大韓義軍「参謀中将」として「万国公法」で裁くよう要求した。彼に接した刑務所長と看守、一検事は心打たれて個人的に彼を義士として遇した。

1910年 韓国併合 「韓国=植民地」期
日韓併合後、朝鮮の憲兵司令官に就任した明石元二郎は、総督の寺内正毅と共に憲兵警察制度を充実させ反日運動弾圧を行った。以後軍部と官憲が「不逞鮮人」なる合成語を発信、新聞報道で拡散して流行語になった。天皇直隷の朝鮮総督統治下では独立運動は謀反を意味し「大逆」視する向きもあった。不逞鮮人は国賊と同意語として使われた。 

1919年 2月8日東京留学生 「独立宣言」 「3.1独立万歳事件」暴動を伴いつつ全国に波及 犠牲者数千人 
3~4月 水原郡堤岩里教会放火虐殺事件 この事件は、原敬首相のかねての懸念どおり、米領事、宣教師、APニュース通信員が知るところとなり、現地視察のレポート"the Cheam-ri Incident"が世界に向けて発信された。軍警が報復として村民たちを教会に閉じ込めた上放火虐殺したという内容である。英領事も視察に入ったりで、英仏でも報じられた。米国では2カ月間に40回報道された。
日本軍有田小隊は避難していた邦人製米業者(デモ隊に家を焼かれた?)の案内で堤岩里村討伐を開始した。4月15日に名簿に沿って、デモに伴う騒擾容疑男子24人(メソジスト教徒12名、天道教徒11名)を教会堂に集め、尋問を始めた。逃亡を図った一人を斬り殺したのがきっかけで騒ぎが起こり軍が乱射、23名死亡、1名脱出。教会をふくむ33軒を焼き払い妻女2人、隣村天道教徒6人を殺害した。近村まで入れると「焼失戸数328・死者45名・負傷者17名」(総督府調査)
「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコト火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(朝鮮憲兵隊司令官児玉惣次郎より4月21日大臣宛電報)
虐殺についても「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」(宇都宮太郎朝鮮軍司令官、日記)
堤岩里事件は軍警がキリスト教徒と天道教徒の指導者に目星をつけて殺害した事件だった。
全国的には同様の事件がいくつも起きているが国際問題として浮上していないので資料*が少ない。
*ほかに7件の大事件と500名余の犠牲数が知られている。韓国史事典編纂会・金 容権編著『朝鮮韓国近 現代史事典』日本評論社

3・1独立運動にたいする日本軍の弾圧は、その苛烈さにおいて、大戦後の世界的な不戦ムードと大正デモクラシーという環境とあまりにも対照的であった。 寺内正毅に代わって首相となった原敬は3月11日に長谷川好道朝鮮総督に対し「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす」(原敬日記)と訓電している。
この事件を契機に武断的統治が「文化的」統治に変わったという。教育を重視し産業を振興すれば・・・と、日本の統治者は維新モデルで朝鮮のヴィジョンを描いたが、現今のGDP信仰同様、格差を拡大させ、流浪民を増大させた。内鮮一体とか美しい看板が掲げられたが文明開化を自負する日本人のほとんどは朝鮮人を「品性低劣なるは蛮民と遠からず」(長谷川好道)と見下していた。

1920年春 尼港事件*、沿海州4月惨変。派遣軍、沿海州朝鮮人パルチザン、独立運動家「掃討」 
*「日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』)  軍部では両民族に対して国民の警戒感を高め敵愾心を煽ることが常態となっていた。 

1920年秋 間島事件 馬賊数百人、琿春領事館襲撃(警察署長、朝鮮人巡査、在郷軍人、子ども含む居留民等十数名殺害)、放火略奪
原内閣(田中義一陸相)は馬賊にロシア人5, 朝鮮人100, 中国人10が混じっていたとしてパルチザン=朝鮮独立軍討伐のための間島出兵を閣議決定した。
馬賊襲撃は出兵口実づくりの謀略、自作自演(親日馬賊を使った)と韓国、中国は主張している。
朝鮮軍(大庭二郎司令官)の一部が独立軍の主力と衝突したが数日のうちに独立軍が撤退したため以後は散発的な小規模戦闘がみられただけであった。討伐行動を数カ月続行したが独立軍諸隊の捕捉には失敗した。独立軍はロシアに逃れた。
討伐行動は焼夷と掃滅と同意語である。長老派協会の医師マルティンにより世界に発信された巌洞(ノルバウィゴル)惨変にだけ触れておく。獐巌洞はキリスト教徒の村で日本軍のいう「不逞鮮人の策源地」の一つであった。
「この間、母親、妻子たちは村の青年達が処刑されるところを強制的に目撃させられた。家屋を全部燃やし、村は煙で覆われ、その煙は龍井村でも見えた。・・・教会堂は灰だけ残り、学校の大建築も同じ運命を辿った。新たに作った墓を数えてみると、31個であった。・・・他の二つの村を訪問した。私たちは燃えた家19軒と墓または死骸36個を目撃した」 マルティン『見聞記』 

日本軍は日清戦争(1894~95年)以来ゲリラ戦に対して司令官が全村焼夷と皆殺しを恫喝したり命令したりし、一部現地軍が実行した。列強の目を気にすることはあったが、当の列強が例外なく植民地、支配地で同じことをやっているのだから一時的減速にはなったがブレーキにはならなかった。
ゲリラは、軍にとっては賊の類であるばかりでなく、それ以前に文明に遅れた野蛮人であった。土人なる差別語が普通につかわれた。不逞鮮人とは皇恩に叛逆で報いる大罪人という意味を加味する思想用語である。
不断の戦争と報道と教育によって民衆は軍人同様に中国、ロシア、韓国の人々を見下す心理を深層に共有するに至った。
マッケンジーは上掲の著書で、軍と共に韓国に入って来た数千の小商人と労務者の夜郎自大な振る舞いを嫌悪をこめて取り上げている。日本刀を振り回す、殴る、殺す、奪う等、にわかには信じがたい乱暴狼藉は、大震災時の民衆の行動を彷彿とさせる。行政の顧問に居座った官吏の汚職と悪政には両班(高麗、李朝時代の官僚₌地主階級)もかくやと想わせた。さらに総督府は日本商人に阿片の商いを許可したのである。

間島出兵に至るまでの長い道のりをわざわざ追体験したのは、祖国と同胞をおとしめるためではない。関東大震災時の、自警団、青年団、在郷軍人会の信じがたい朝鮮人虐殺がパニックによる偶発事件ではなく、30年間の大陸進出で脳底に焼き付いた記憶が異常時に誤動作を招いたことを納得するためだった。



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