自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

石光真清の手記/百年読み継がれる魂の自伝

2017-02-07 | 体験>知識

 石光真清 1868.10.15~1942.5.15 

「シベリアの冬は暮れやすく、人の生涯は移ろいやすい。青年将校の軍服を脱いでブラゴヴェシチェンスクに初めて留学した日から二十年の歳月が流れている」 石光真清は足掛け五十歳の身をふたたび諜報勤務員として同地に投じた。十月革命直後の1918年正月のことだった。
宿泊することにしたホテルは暴漢達に荒らされて支配人のほかにひと気はなかった。そこへズックの小袋を持った背の高い電気工が入って来て故障した電燈を直した。
「ポルコーウニック(大佐)よ、視察に来たのですか」 意外にも、短いほほヒゲのなかの顔が微笑していた。
「・・・・・・」
「大佐よ、貴方は私を知らないと思う。私も貴方に会うのは今夜が初めてだから・・・」
「・・・・・・」
「大佐よ、ロシア市民は苦しんでいます。・・・しかしわれわれには希望がある。大佐は帝政時代のわれわれの生活をよく知っていると思う。ロシア市民が今なにを求めているかもおわかりだろう。大佐は必ずわれわれを激励してくれるものと思う」
電気工は虚を突かれた石光をのこして微笑を浮かべて立ち去った。
「革命の嵐の中で幾たびか彼の頑丈な大きな手を握る日が来ようとは思わなかった」
アムール州ボルシェヴィキの指導者ムーヒンが石光の首実検に来たシーンである。
手記第4部『誰のために』の一場面である。

菊地先生に薦められていっきに読み通した手記4部作にはそれぞれに半世紀余り経った今でも鮮明に想いだすことができる情景がいくつもある。

第1部『城下の人』の城は熊本鎮台である。人は、官軍であり賊軍であり、あるいは真清と周囲の人々である。真清が10歳のときに西南戦争が起きた。真清が髷を結って朱鞘の刀を差して西郷軍の陣地に遊びに行った光景は鮮やかに憶えているが、この1冊が今行方不明のため会話までは確かめられない。官とか賊とか分類されても真清には双方に顔見知りがいる。世間が区分けしても、真清にまず見えるのは人間という大本の類、核である。真清の波乱万丈の生き方に流れるのは幼少年期のこの体験から発するヒューマニズムである。
もう一つ脳裏に焼き付いているのは真清が長じて青年将校として日清戦争中、台湾征討に従軍したときの一場面である。戦火の中を子供を背負って戦う母親の姿を真清がとらえて記録に遺した。女性子供も参加したゲリラ戦が石光の真心に響いたと思われる。生死を賭けた戦いの中で犠牲者さらには抵抗者に思いをはせる真清の生来の優しさをわたしは強く印象付けられた。この優しさが後年シベリアと満州で、ときには敵将兵に敬意を払う寛容な態度、時々頼ってくる馬賊、海賊の頭領、からゆきさんを親身になって匿い助ける温床となる。

  日清戦争 1894~1895

第2部『曠野の花』  馬賊・からゆき編
コリアをめぐる日清戦争で一番得をしたのはロシア帝国だった。三国干渉を経て旅順、大連を租借し、ザバイカルから浦潮を結ぶ東清鉄道敷設権を確保した意味は大きかった。シベリア鉄道のショートカットが満州を横断する。小さな寒村に過ぎなかったハルピンの一本の楡の木を目標に東西(浦潮~満州里)から鉄道建設が始まった。
日清戦争後、時代が要請するロシア語を学ぶために真清は参謀本部付予備役としてアムール河[黒竜江]北岸ブラゴヴェシチェンスク[略称武市]に留学した。軍役でないので私費である。真清の妻は借金返済のため生活に窮した。
武市はシベリア・ロシア軍の最大根拠地で、支配下に置きつつある満州に東清鉄道建設用資材・要員と軍需品・兵員を送る軍用港、貿易港だった。真清はその人と物資の流れを監視報告する情報員を兼ねていた。
列国の華北侵蝕に無論清国は抵抗した。瑞郡親王が「攘夷」を決行した。攘夷農民と義和拳法による義和団の乱が起こると日本軍が列強連合軍の主力となって鎮圧した。その後攘夷派官軍が黒竜江省の馬賊と結託して愛琿で蜂起を企図し武市に砲弾を打ち込んだ。その頭目が後述する女馬賊お花の主人宋紀である。チチハルを根拠に配下800名をもつと評判の宋紀はこの戦乱で落命した。お花によれば確かではないが武市に潜入して蜂起準備中に大虐殺に遭ったらしい。
これを機にロシアは大々的に満州侵略を強めた。武市の清国人3000人を全員「支那街」に封じ込め、安全地帯に誘導するという口実でアムール河岸に連行しカザック兵に虐殺させ老若男女一人残らず濁流に流した。真清の寄留先ポポーフ大尉一家のボーイもロシア官憲に指し出された。
ロシア軍は対岸の清国黒河鎮、愛琿城を焼き払い逃げ遅れた清兵、住民を虐殺した。愛琿の歴史陳列館には黒竜江に押し込まれる清国人の画像が展示されている。
撮影者の了解を得て掲載する。ロシア人の残虐性を読み取らないでほしい。ヒトの性は善である。状況次第で鬼にも仏にもなる。・・・と私は思う。日中ロ友好万歳!

チチハル公路を逃げる避難民の中にいたお花は、はてしなく続く一本の羊の群れのような避難民の列に追いかけて来たカザックが馬上から射撃を浴びせた、と語った。
「アムールの波」というワルツの名曲には罪はないが、万単位の犠牲者を出した「アムール流血の大津波」と名付けて記憶すべき大虐殺だった。
北満のロシア支配が確定した。同時に日本では恐露症と国難意識が深く広く浸透した。

官が国内流通を仕切れない時と所では馬賊、海賊が闇で流通を仕切る。割拠する馬賊が連携して「通行料」をとって道中を保護する漉局ルーチーとよばれる仕組みがそれだ。同様の賊はシルクロードにもシーレーンにも瀬戸内海にもいた。官が強くそれが途切れると集団強奪、群盗に変わる。鉄道沿線でロシア守備隊の手薄なところを狙って義和団を名乗る清兵と馬賊がロシア人を虐殺することもあった。
満州の馬賊は、清軍に、義和団の乱後はロシア軍にも、追われ、捕まれば即刻殺された。この第2部には馬賊のさらし首の写真が載っている。皆血を啜りあう盟約をして拷問にも口を割らず平然と斬られたと真清は云う。真清は馬賊の頭目を庇い尊敬と信頼を得て友誼を結ぶ。

真清は乱後浦潮に帰還し参謀本部に武市と北満の激変の情況を報告した。同時に現役に復帰してロシアが東清鉄道支配の拠点にしていたハルピンに潜行を命じられた。女郎だけでも100人居たハルピンの日本人だが乱後みな東に避難して、在留邦人は13名を残すのみだった。ハルピンの荒廃は推して知るべし。そこに至るルートも山地あり密林ありで険しい上に住民がみな避難していて鉄道工夫とそれを保護するカザック兵の他は馬夫か馬賊しかいない。
真清は決意する。「身を寄せる高い樹のない満州では高粱の陰に身を伏せ」ようと。ハバロスクで出発の手づるを求めている時に馬賊の愛妾お君と出会い、その頭目増世策を紹介されて同志となる。東清鉄道沿線と松花江沿岸で配下2000名を従える増頭目とお君の実行力がなかったら真清は単独行の任務を果たせなかったであろう。馬夫も支那宿の主人も増の賓客といえば跪座の礼で応対した。行路の情報も、ロシア軍洗濯夫になりすました旅券も船券も馬賊の人脈で入手できた。
途中金鉱から避難中の女郎3人の行倒れを助けた。自分は任務が大事だから、と私なら非情になるところだ。縁とは不思議なもので女郎の一人お米が後に瀕死の真清を牢獄から救出する幸運の女神になる。
ハルピンに着いて菊地正三の変名で洗濯屋になった。開業にあたり韓国人スパイがロシア軍に口利きをした。ロシア軍人を得意先として洗濯屋は大繁盛し、訪ねて来た女馬賊お花を番頭にすえた。義和団事件以来の再会だった。
余裕ができた真清はロシア士官にもらったパスポートで商人を装って視察旅行に出かけた。情報を収集するためだけでなく人脈を広く太くするためである。増頭目の護照とパスポートが効いて馬車もカザック兵の哨舎も利用できた。
だがその先は通行厳禁で1週間以上逗留している時清兵と馬賊らしい部隊が哨舎を襲った。露清の争闘に巻き込まれた真清は日本人を名乗る韓国人露国スパイと疑われて獄舎に放り込まれた。そして1日5個の饅頭と一杯の水を与えられる以外はまったくの放置状態に置かれた。衰弱死を待っていたのであろう。
痩せて骸骨みたいなって朦朧としてぼんやり格子越しに外を見ていた時一人の婦人が通りかかった。行倒れを救われた後行方不明になったお米だった。お米は戦乱の中真清を探し回るうちに拉林馬賊の頭目宋の妾婢になっていたのだった。事情を聴いて宋頭目は間違いを謝罪し、真清が持つ増頭目の護照をみてかしこまった。頭目はお米の旅費を出して帰国を勧めた。
真清も同意見で諜報の報告と相談を兼ねて一時浦潮に帰還することにした。
浦潮に行くには厳冬の老爺嶺の嶮を越えねばならない。真清は闇夜の密林の中で焚火用の枯れ枝を探しているうちに命の恩人お米が失踪したことを知る。自身の体力の限界を知って真清の身を思っての行動であろう。大頭目増の処刑を耳にした後だったので真清は二重に打ちのめされた。

大病をはさんで、牢獄、難旅行でいくたびか死線を越え死地を脱した末、真清はひとり浦潮に帰還した。命の恩人お米をくにに還してやれなかった真清の無念が思いやられる。
浦潮は当時ロシアの動向をにらむ日本の情報機関、商務官、商人、大陸浪人の根拠地であった。町田少佐、武藤大尉に石光大尉が満州情勢を報告して協議の結果つぎの結論に達した。「ロシア軍の満州占拠は既に経営時代に移って本格化して来た」 情報網を黒竜江北岸のロシア領と全満州に張り、中心をハルピンとし、そこに商館を設ける。
かくて石光の新任務は単独情報収集行から諜報網組織者に変わった。

第2回ハルピン行きである。ハルピンは避難していた人々が帰還しロシア商人も来始めて騒動前の賑やかさを回復していた。日本人も200名を優に越していた。真清は文字通りの軍資金3000円で写真館を開業した。ロシア人の信用を得て軍と東清鉄道の御用も務めるようになった。洗濯屋はお花に任せた。

ハルピンの菊地写真館は繁盛し館員10人の大所帯になった。横河・沖の志士、二葉亭四迷等の浪人、駐露武官を離任した田中義一が寄宿し、小さな梁山泊の観があった。大庭柯公が日本人会に事務員として寄宿していた。
要所大連に写真館支店を置いたのをはじめ、ほぼ満州全土と武市に諜報網を張り巡らした。ロシア軍の守備地と東清鉄道の写真、地図、満州経営の進行状況を参謀本部に逐次送った。

真清は再度南下の旅に挑戦することになった。洗濯屋を日本商人に売却した譲渡金と儲けの金をお花に渡して帰国させることにした。旅の手配はお花がした。ロシア軍の請負馬車隊の炊事係という触れ込みだった。カザック兵の護衛付きである。視察しながら南下したが長春、奉天に近づくことはできなかった。列強のスパイに漏れてはならない第一級のロシア軍事機密がそこにあったからである。
西に方向転換してチチハルをまわってハルピンに帰り通常のルートで浦潮に還った。お花とは永久の別れとなった。お花といい山塞に潜伏しているお君といい何とたくましい生き方であることか! 真清はこの逞しさを「無知の胆力、実行力」と敬意をこめて表現した。 

1904年が明けるころにはハルピンの邦人のうち婦女子はほとんど引き揚げてしまった。
増世策、宋紀は道半ばで斃れてもういない。石光はひそかに傳家旬の頭目・王尓宝を訪ねた。延吉の孫、五常の唐、呼蘭の高と鳴りを潜めている大人の名を挙げて開戦時の決起を促した。「私の考えは彼らが団結して蹶起するならば、帰国を見合わせて、彼らの一団に身を投じ、ロシア軍の輸送を妨害する計画であった」

第3部『望郷の歌』  日露戦争~海賊編
日清戦争に勝って韓国支配を強める日本であったが、清国はさらに弱体化し、三国干渉により地歩を固め満州を制したのはロシアであった。義和団事件でも日本がロシアのために露払いをしたことは上記で観たとおりである。
ロシアが満州を軍事支配すれば日本の韓国支配が危うくなる。日本が韓国を軍事支配すればロシアの満州支配がヤバくなる。にらみ合いの末国交断絶となった。
   日露戦争 2004~2005

そして物力で劣る方にありがちなサプライズ・アタックで火蓋が切られた。
1904年2月11日 対露宣戦布告
真清はハルピン写真館を閉じて帰国の途に就いた。日本は桜が満開の季節だった。
石光は帰国と同時に召集され第2軍司令部付副官として参戦した。緒戦の激戦南山戦を詳しく描写している。機関銃対銃剣に象徴される「肉弾戦」だった。「さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽すは日本の兵」と数え歌で歌われ、わたしも親が子守唄代わりに歌うのを聞いて育ったが、戦勝国のおごりが歌わせたものだ。日露戦争はまさに死屍累々たる死闘だった。石光の筆の運びには始終おごりがない。

1906年正月に石光は凱旋した。石光が心の中の空虚に気づき始めたころ、参謀本部の田中義一大佐が石光の諜報活動に報いるためか、対満方針が決まるまでしばらく関東都督府陸軍部で通訳として待機してもらえないかと勧められた。
後の関東軍となる司令部に出頭すると「書類の整理でもやってもらおうか」と命じられた。即辞表を出して旅順の街にさ迷い出た。軍は戦前とは「較べものにならないほど組織化され規律化されていたのである」

真清は軍が満州で市民を敗戦国民扱いしているのをみて心を痛めた。そして自分のみじめさにも嫌になった。両手に余るほどの商売に手を付けたが一つも生業にならず無一文になった。「満州ごろ、満州浪人・・・あゝ嫌だ」
そして渤海湾の海賊を匿った縁で海賊の客人になった。その間ルーチーに替わる日支合弁の海上保険公司を作って海賊を真っ当な生業に就かせようと夢のような企画を立てて清国奉天政庁に働きかけた。そして頭目2人の名を不用意にもらしたためにその一人高景賢を誘殺されるという取り返しのつかない大失態をやらかした。
さらに戦前写真業をロシア軍に売り込んでくれた大恩人の東清鉄道庶務部長アブラミースキーの信頼を企画の頓挫で2度裏切って絶交された。
絵に描いた餅では算盤を弾けなかった。自信も信用も失った真清は失意を抱いて日本に帰るしかなかった。

1909年 世田谷村で三等郵便局長
1910年 韓国併合
1914年 第1次世界大戦
1917年 十月革命
 

日本は、第一次世界大戦が勃発してアジアで欧州列強の力が手薄になった隙をついて中国に対して屈辱的な対華21カ条の要求を突き付けて中国侵略の大きな一歩を踏み出した。
世田谷で日々これ好日の幸せに浸っていた真清にまた関東都督府から渡満の誘いがあった。満蒙貿易公司の錦州商品陳列館開設事業である。その事業が成功し繁盛していたところに参謀本部次長に出世した田中義一の直々の指名で出頭命令が来た。用件は十月革命直後のロシア潜入だった。[次稿 手記第4部 に続く]



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