青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ペロー残酷童話集

2017-10-17 07:42:26 | 日記
シャルル・ペロー/澁澤龍彦著『ペロー残酷童話集』は、澁澤龍彦が翻訳したペローの代表的な童話四作と澁澤龍彦の評論二作で構成されている。

1 ペロー残酷童話集
眠れる森の美女――*姑の嫁いびり
親指太郎――*幼児虐待
赤頭巾ちゃん――*少女殺し
青髭――*夫による妻への虐待

2 童話の中の秘密の傷
童話のエロティシズム
処女の哲学
胎内回帰願望について
エロティック・シンボリズムについて

3 血も凍る青髭伝説
幼児殺戮者

童話と言えば、日本ではグリム童話が広く愛好されているのに対して、ペロー童話は読者層が狭い。基本的にハッピー・エンドなグリム童話に対して、突き放すような冷たい結末のペロー童話は子供に読ませるのに躊躇する保護者が多いのだろうか。
また、グリム童話のいくつかがペロー童話をもとにして書かれたという事実も、ペロー童話は未完成、グリム童話の方が決定版、という誤解を生んでいるのかもしれない。

『眠れる森の美女』は、グリム童話では王子がお姫様を救い出したところでハッピー・エンドだが、ペロー童話ではこの時点ではまだ物語の前半が終了したに過ぎない。寧ろこの先が本題だ。ペロー童話では、王子の母親である王妃は人食い鬼の末裔なのだ。真の敵は、悪い仙女ではなく、血を分けた身内なのである。
王妃は息子の留守の間に、お姫様と息子夫婦の子供たちを料理して食らおうとする。赤の他人のお姫様は勿論、実の孫たちのことも新鮮な食材としか見ていない。玉葱入りソースで食べたいのだそうだ。
王子が妻子を救うには、実母を滅ぼさなければならない。成功してもしなくても、王子にとっては辛い話である。そして、もっと怖いのは、この王子にも人食い鬼の血が流れているということだ。

『赤頭巾』は、グリム童話では猟師さんに救出されるが、ペロー童話では助けは来ない。おばあさん共々ムシャムシャ食べられてお終いである。若い娘が誘惑にフラフラするとだいたい碌なことにならないのは現実といっしょだ。


『幼児殺戮者』は、青髭伝説のモデルとなったジル・ド・レエについての考察で、『異端の肖像』(桃源社1967年)が初出だ。

澁澤龍彦氏の著書は中学時代に夢中になって読んでいて、背徳的なことはだいたい氏の著作から教わった。レエ候について知ったのも、『黒魔術の手帖』『異端の肖像』などの澁澤氏の著作からだった。

『異端の肖像』は、ルードヴィヒ二世、グルジエフ、サン・ジュストなど古今の怪物的人物7人について氏が自由に綴った人物伝だ。今では日本でもお馴染みとなった顔ぶれであるが、60年代にこの選出はすごい。中でも、氏の一番のお気に入りはレエ候なのだろう。
しかしながら、私がもっとも心惹かれたのは、思いつきで生きているとしか思えない“デカダン少年皇帝”ヘリオガバルスだった。出来るだけ楽に生きたい私には、レエ候の得体の知れない懊悩は殆ど理解できなかった。

それから、長い長い月日を経て、今回再び『幼児殺戮者』を読むことになったわけだが、三つ子の魂百までらしく、ズボラ者の私は、やはりレエ候の気持ちに添えないのである。この人の人生は、暴力と悔恨の繰り返しで、わざわざ悩まなければいけない状況を作り出して悦んでいるとしか思えないのだ。お金も体力もいる面倒くさい性癖である。

そもそも殺害方法がスプラッタ過ぎてそそられない。
目玉を抉り、こねくり回す。刺の付いた棍棒で、頭蓋骨が砕け、脳漿が迸るまで打ちのめす。工夫も趣向も無い、原始人的蛮行である。レエ候の居城の地下室には、こんな風に殺害された幼児の腐乱遺体が数百体打ち捨てられていたのだそうだ。臭い、汚い、想像しただけで鼻が曲がりそうだ。天蓋から降らせた大量の薔薇で客人を窒息死させたというヘリオガバルスの方が、断然ファビュラスである。

ジャンヌ・ダルクに傾倒して、共にオルレアンに戦った。キリスト教に熱狂して、次々に壮麗な礼拝堂を建立し、教会音楽を愛好した。それから、幼児虐殺への耽溺と、裁判での鬱勃たる告白衝動。
普通の人間なら、妄想で留めたり創作活動に昇華したりする凶暴で粘っこい欲望を中世の特権階級に生まれ、当時フランス屈指と言われた巨万の富を受け継いだレエ候は、あらかた実現することが出来た。
殺害方法の残酷さから、サディストと言われることの多いレエ候であるが、私は、この人は根っからのマゾヒストだと思っている。彼の嗜虐的な行為は、すべて懲罰を期待しての被虐性欲に基づくものとしか思えないのだ。
破産するための放蕩。贖罪意識を得るための殺人。常に苦痛、不安、恐慌、焦燥を感じていないと生きている気がしない。最期は自ら望んで火あぶりに処せられたのだけど、それは聖者の殉教と悪人の処刑のダブル・イメージを堪能できる最上級のご褒美。この上なく甘美な苦痛だったに違いない。

“よしんばジルの精神がどのように混乱していたにせよ、この混乱はキリスト教と矛盾するものではなく、ジルの魂は救われる運命にあった、と見るべきだろう。”

サディズム/マゾヒズムという特殊性癖は、キリスト教に秘められた暴力や狂気と切り離して語ることが出来ない。
レエ候の滑稽なまでに極端な生き方は、見方を変えれば修行僧のように禁欲的だ。火刑台を熱心に乞い求めたというレエ候の心境は、キリスト教を正負の両面から極めた者のみが到達できる境地で、そういう意味では、日本人はサディズムもマゾヒズムも極めることが出来ない。ドSだドMだ言っても、結局はちょっと手の込んだセックスのバリエーションの一つ、ごっこ遊びに過ぎず、その精神性の浅さはコスプレあたりと大差ないのだ。
つまるところ、私のレエ候に感じる馴染めなさとは、どれだけ心を尽くしても、その深淵に触れることができないだろうという疎外感に基づくもので、言ってみれば葡萄を諦める狐の心境なのである。
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