2016年12月5日(月)
神戸の六甲道駅から姫路まで、新快速電車で45分ほどで行きます。
3日(土)、古代史研究家の市川慎さんと神戸駅で待ち合わせをして、市川さんの車の助手席から姫路城と、一つの神社の鳥居が目に飛び込んできました。
その日は、Yさんも一緒に市川さんの話を聞きましたが、それからその2ヶ所が非常に気になるので、翌日日曜日に姫路城へと行きました。
それは、前々から姫路という地名と、卑弥呼の陵墓との関係性が大いにあるという思いが私にはありましたから、この今のタイミングなんだろうと思って、天気は悪くとも行くことにしました。
事前に私は、コンパスグラスで覗いて20度ラインが卑弥呼の陵墓であることを地理院地図から割り出して行きました。
姫路駅で降り立ち、北の方へ出ると、そこには姫路城を案内するかのようにメイン道路が城へと延びています。
そこでコンパスグラスで城の方向を見ると・・、角度が全く違いました。
これは益々、天守閣へと行って方位を測らなければならないという気持ちになりました。
神戸を出る時は雨は降っていませんでしたが、姫路駅に降り立った時にはもう小雨が降りだしていました。
城はすぐそこにみえていますが、それで・・、タクシーで行くことにしました。
・・・
天守閣へと上り詰めると・・、そこには御社が祀られていました。
なんと、姫神様を祀ってありました。
「さぁ角度は何度だ、角度は!」と私の頭の中に響き渡ってきます。
小雨模様の天候のせいもあって室内は薄暗くて・・、ハッキリとコンパスグラスの数値は読みにくい状態でしたが、何度も何度も間違いないかと計りました。
その数値は、「ピッタリ20度」でした。
播磨国風土記に記された埴岡の里、現在の神河町にある卑弥呼の陵墓がある角度にピッタリと向けて姫路城は造営されていました。
そしてそして、天守閣にはその卑弥呼の陵墓に向かって手を合わすように、城の最上階の天守閣の中央に「姫神」を祀る御社がありました。
私は北の窓からどのような山々が見えるかも非常に興味がありましたので、コンパスグラスでそこから目印になるような山の形にラインを合わせると・・。
イエスの陵墓と卑弥呼の陵墓を教える特徴ある山も見ることができました。
そして、天守閣へと登る途中でアゲハチョウの模様を掘った瓦も展示してありましたが、靴を入れるビニール袋にも平家の紋章であるアゲハチョウが印刷されてありました。
又、パンフレットには、十字紋瓦が「にの門」の破風上にあることも書かれていましたが、このことも私には大いに興味が持たれます。
姫路城とは、間違いなく御姫様である女王卑弥呼を守り祀っていくお城であり、御姫様の陵墓へと通じる路が「姫路」という地名として残っているということでしょう。
昨日の雨は、「やっと姫路城の本当の意味を分かって下さる方が来られましたぁ・・」と、イエス王家の方々とその直系である卑弥呼様とそれを支えた平家の方々など目に見えない多くの方々涙されたようでした。
世界文化遺産である姫路城へと、これから益々、世界中からやって来られます。
そして、そこで先ずは姫路城で御参りを済ませ、そこから播但線に乗って生野、神河町の聖地へと行かれます。
その流れはもう止めることができないでしょう。
神様のシナリオは、それはそれは素晴らしいものですよ。
その重大なことを教えるもう一つの秘密も、姫路の方々に変わって書きたいと思います。・・つづく