北九州?福岡?どの辺だっぺ。

 

 

地図を見ると、九州の上の方。

 

北九州は、本州のすぐそばだった。

 

九州なんて行ったことないしなあ・・・

 

暑いんだっぺか?雪は降らねーべな・・・

 

福島県と言っても、東北の一番南で太平洋側のいわき市は冬比較的暖かく、年に1~2度ぐらいしか雪は降らない。

 

そして、東北だから夏は涼しいのだ。

 


FCPネットワークから紹介された、避難者支援の担当者に、「一度北九州の下見に来てください。」

 

と言われ、交通費と滞在費が支援団体へのカンパの中から支払われる説明を受けた。

 

 

早速、次の月子どもたちと共に北九州に行くことにした。

 


滞在するホテルの手配も、JRの切符の手配も全て支援団体の担当者がしてくれた。

 

私たち親子は予定した日に北九州市に行くだけでよかった。

 


すると、暫くしてFCPネットワークの担当者から電話があった。

 


その電話の内容はというと、

 

「北九州の支援団体の代表がNHKの番組の取材を受けているので、真子さんの支援をしているところを取材したい」

というのだ。

 


最初、ニュースか何かだと思っていたが、どうも1時間弱の番組のようだった。

 


真子は非常に人見知りで、目立つのが嫌いなので、最初は「無理」と思った。

 


でも、番組に出る「恥ずかしさ」より、

 


「怒り」の方が大きくて、なにより、福島の状況が少しでも伝わればという思いが強く、

 


自分でも驚いたが、番組の取材を受けると返事してしまった。

 

 

NHKの取材はいわき市の自宅の中から、北九州に下見に行く時~下見中~ずっと続いた。

 

ディレクターの残間さんは気さくで、音楽の話も合い、

これから悲惨な自主避難生活に入るという現実を少しの間忘れられた。

 


あまり普段からテレビを見ない真子は、

 


何となく「国営放送は一番真実に近いことを放送する」って思っていた。

 

 


カメラマンも音声さんも気さくな人だったし、

 

原発事故が原因で自主避難するしかなかった、どこにもぶつけることのできない怒り、

 

放射能の土壌汚染があるのに誰も何も言わないことのおかしさ、

 

社会のおかしさもきっと平等に取り上げてくれると信じていた。

 


そうやって、真子がいわき市から北九州市に移住する間~移住後の3か月、合計4か月に渡る収録がスタートしたんだ。

 

 

ホントは、年度明けの4月から移住をと思っていたが、

11月末~12月に北九州の下見。

 

帰宅後、急遽、自主避難の支援打ち切りの発表があり、

予定では12月ではなく、次の3月に受けようと思っていた上の子の高校編入試験を 

12月中旬に受け、面接した。


同日、息子の試験中に、ネットである程度絞り込んでいた物件を回り、住居を決め、

 

12月下旬、高校編入の手続き


と、たった一か月の間に3度、いわき⇔北九州を往復し、すべての自主避難の手続きを12月末に終えた。

 


4月からの避難だと思っていた真子の両親は急の引っ越しに泣いていた。真子も子ども達も泣いた。

 

2012年、1月11日、真子は子ども達と3人いわき市から北九州へ自主避難した。小倉(こくら)に着くと雪が降っていた。

 

NHKの収録は小倉駅で避難支援代表との再会、引っ越しの様子、真子達親子の日々の生活、子ども達の学校での生活を録っていた。

 

そんな中、真子たち親子のピアノコンサートが避難支援団体の代表から提案された。

 

NHKの収録も、これが最後だった。

 


真子は、支援への恩返しと、これからの生活への不安払しょくの弾みにと思い、コンサートの提案を承諾した。

 


小さな会場だったが、60人以上の参加があり、

 


第一部は、心を込めてピアノを弾いた。

 

私達親子のピアノを聴いて、

泣いてる人もいた。



そして、第2部では、

 


原発事故後に真子が見たこと、自主避難を決意した経緯、今後の事、この小さなコンサートに来てくれた人たちに、淡々と事実だけを話した。


真子の話を聞いて、泣いてる人がいた。


なるべくわからない人にも分かりやすいように、事実の羅列。

 

 

真子は、自分の感情は話さず、事実を淡々と話していたのだが、

 


話の後半、

事実の羅列だけなのに、泣けてきた。

 

 

もう、涙が止まらなくて、「ちゃんと伝えなければ」と思うのに、

涙声になってしまう自分が嫌だった。

 

 

自分の気持ちとか、そういうことではなく、


事実だけで、怒りがわいてきたんだ。


誰も向き合わない、向き合うと苦悩する。

 

誰をせめても変わらない。

 

放射能を避けようとすることも許されない。

 

今まで無関心でいる事こそが、一番幸せでいられると思って出来るだけ本質を見ないようにしていたのに、

 

いざとなった時、無関心でいたことの付けがまわってくることを知らなかった、自分自身への怒り。

 

変える方法が分からない。

 

変えていたら、被ばくしちゃう。

 

変えられないなら、逃げる。

 

逃げても、生活苦が待っている。

 

 

「あたしが、何か悪い事でもしたんか?!」
「腹立つ!」「腹立つ!」


真子の怒りは、この会場にいる人に

少しでも伝わったのだろうか。

 わからない。

唯一わかったのは、普通の暮らしを維持することが、とても困難であることだけだった。

 


小さなコンサートの最後、避難者支援団体の代表は、

 


「今度は真子さんが、避難者を支援する立場になっていけるように、そういう場を作っています」

と言っていた。

 


自主避難を少しでも理解してくれる人がいるってだけで嬉しかった。

 


沢山の支援者がいるって、心強かった。

 

 


丁度そのころ

 

、いわきで放射能汚染と格闘している友人から、

 

「放射能汚染瓦礫を全国で焼却するっていうニュースがあるの。
九州を汚されたら、福島にいるお母さんたちはどこの野菜を買ったらいいかわからなくなる。九州のがれき受け入れは絶対に阻止して!」

 

というメールを受け取った。

 


真子は普段からニュースを見ないので、寝耳に水だったが、


原発の集会で3分間スピーチの依頼があったので、

「がれき受け入れないようにって、話そう~」


九州の人は、福島から遠くて、放射能汚染というのは、場所によって空間線量が違うことや、
実際に汚染を測定すると二万bq/kgあるってことを知らないだけだと思った。

 


放射能汚染の事実を知れば、わざわざ北九州で放射能汚染瓦礫を焼却しようなんて馬鹿な考えはなくなるだろうって思っていた。

 

 


そして、2012年3月11日が来た。

この日からだ。

真子は自分の見たことのない世界を見ることになる。