こんばんは。Lunaです。

 

何と今年最初の投稿ですが、今回はとても書きたいことがあるので、

今年の展望は次回に譲ります。

 

先の土日、私はある研究会に参加しました。

そこで、精神障害・発達障害の方の支援に携わっておられる方々の

お話をたくさん聞きました。

どの方もみんな、「当事者」の「主体性」を尊重して、「対等」な関係を

築こうと努力しておられました。

それは素晴らしいと思いながら、でもどこかでチクリと違和感を感じて

しまうのです。

 

まだうまく言葉になりませんが、それは「当事者」と言った時点で既に

支援者をはじめ「一般人」と区別されるような感覚なのかもしれません。

もちろん、「当事者」と「支援者」の区別を超えて・・・といった議論も

なされました。

それもわかる。

まさに私はその区別を超えようとしている。

でも、彼らはあくまで「当事者ではない」のです。

そこには明確な線引きがあるように感じてしまいました。

 

では、私は「当事者」として何ができるのか。

いや、その前に、いったいどこまで「当事者」になれるのか。

私は「精神障害者」ではあっても、「統合失調症」ではありません。

「双極性障害」の「当事者」にはなれても、「統合失調症」の

「当事者」にはなれないのです。

それでも、「精神障害者」としての「当事者」になれるのか。

そして私はその「当事者性」に何を求めているのか。

『ピアカウンセラー』とか名乗ってるけど、じゃぁいったい何が

『ピア』なのか。

普通のカウンセラーと何が違うと言いたいのか。

『ピア』であることの意味って、いったい何なのか。

 

ここで、私の初心として、プロフィールの一部を抜粋します。

 

「ピア」とは、「仲間」「当事者」といった意味です。
カウンセラーでありながら、「当事者」としてクライアントさんと

対等にお話できる、心からの感情を分かち合い、癒し合い、

支え合って、ともに人生という長い道のりを歩いていくことの

できるパートナーになれたら・・・

 

ここで私自身が言っている「心からの感情を分かち合い」

という言葉を、私は「共感」ではなく、『感情の共有』

言いたいと思います。

「共感」は、想像力と知識と思い遣りがあれば、誰にでも

できます。

でも、同じ痛みや苦しみやしんどさを「共有」することは、

それを経験した人にしかできないのではないか。

カウンセラーは常に冷静でなければならないとされている

けれど、私は敢えて、『ともに泣きたい』と思うのです。

 

本当にその人の気持ちを一緒に感じた時、その人の心が

泣いているのに、どうして自分だけ冷静でいられるでしょうか。

苦しさ、悔しさ、怒り、不安、絶望・・・こうした感情を『共有』

した時に溢れてくる涙は、自浄作用も持っているものです。

『ともに泣く』ことで、お互いに心の深い澱を洗い流し、

ともに前に向かって進んでいく力になると思うのです。

ここに、1対1のカウンセリングだけでなく、当事者の集まりによる

エンカウンター的なグループワークの価値もあると思います。

実は、そこに演劇のメソッドをちょこっと入れたい、という野心も

密かにあったりするのですが。

 

ここまで考えてきて、つまり私がやりたいことって、

『自助グループ』なんじゃないの?という気がしてきました。

何だかんだ言って、私も人見知りなので、既にできている

グループに一人でアクセスするのはすごく勇気が要ります。

でも、まずは私自身が、『ピア』(仲間)と繋がるべきだなぁ、

と思いました。

 

40歳になり、新たな地平を見据えようとしても、日々問題が

山積みで、忙しさに取り紛れてなかなか自分とじっくり向き合う

時間が取れません。

でも、そうやって自分に言い訳しているうちにも、時は刻々と

過ぎていく。

残りの人生が、どんどん短くなっていくんです。

動き出さなきゃ。

ほんのほんの一歩ずつでも。

 

  自分も人も、ともに幸せに生きるために。