本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。
徳島県の聖地エル・カンターレ生誕館に宿泊研修に行って参りました。
四国徳島には、たくさんの幸福の科学の施設があって、「さすが聖地」とうらやましく思いますが、この生誕館があるのは、大川隆法総裁の生誕地である、吉野川市川島町ですので、なんとも別格な趣きがございます。
都市としての川島は、まぁ田舎と言えば田舎ですけれども、まぁ私も十分な田舎暮らしでございますので(笑)、都会の方とはちょっと感じ方は変わっていると思います。
そう、風景とか、そう言った意味でのノスタルジーは感じないんですね。(爆笑)
川島の地は田舎ではありますが、JRの駅前の町ですし、特急剣山の停車駅でもありますから、四国内で言えば、中の上くらいの田舎なのではないかなと思います。
今回、高知の田舎から、徳島の田舎への移動でしたので、まぁ目に映る風情とすれば、日常的な移動ではあって、東京ドームに向かうときのような高揚感はなかったですねぇ。(笑)
しかし、そうではない高揚感があるんです。
それは、大川隆法総裁の御生家がまだあったり、経典『若き日のエル・カンターレ(旧・平凡からの出発)』などに出てくる勉強小屋跡地などを巡ると、ふつふつと込み上げてくる感情です。
https://seichijyunrei.com/index.php?%E5%B7%A1%E7%A4%BC
それは、「本当に大川隆法総裁は、ここで生まれ育ったんやなぁ。」という思いと、ごくごく普通の家庭に生まれ、普通の青少年期をお過ごしになられた中、「平凡な努力を積み重ねる内に、非凡なる高みに至る。(若き日のエル・カンターレより)」という「教え」そのものが、眼前に広がるのを見るのと見ないのでは、心の奥行が少なくとも、100倍くらい違っているのではないかと思うのですね。
しかもこの小さな町には、大川隆法総裁の同級生や先輩後輩、そして教鞭をとった先生方や、幼稚園の保母さんまでいらっしゃるとのことで、その中には、今幸福の科学の信者になったり、幸福の科学がマスコミ等に苦しめられたりした際に、大川隆法総裁の盾になって下さった方もいたのだとか。
大川隆法総裁のお母さま曰く、「二十歳までは普通の子じゃったよ。」とのことですが、いやいや、その信用力というのは、現場に行けば行くほど、聞けば聞くほどすさまじいものがあって、実直に、そして、驕ることなき御仁なんだと思うし、でなければ、存命中に生まれた真っただ中の場所に、「エル・カンターレ生誕館」など建てられるわけがないのです。
http://shoja.jp/shoja-areas/chugoku-shikoku/
さて、このエル・カンターレ生誕館について、安っぽい信者ブログごときには語り切れないとは思いつつ、できうる限り、一面たりともお伝えできればと思います。
まずは、圧巻の礼拝堂。
さすがに内部は写真撮影もできないし、法具などの画像を貼ることはできませんが、圧倒的な霊域であることは入った瞬間に感じます。
「自分自身が、とても小さな存在ではあるが、そのちっぽけ心地よい」というのが私の印象です。
この感想は、恐らくお一人ひとり、違ったものになるのではと推測します。
そして法具の一つ一つが、全地球規模を救済の対象としていることが、ありありとうかがえるのですね。
本尊や法具などは、宗教にとってとても大切な秘儀ですけれども、どの宗教においても、これには一定の法則が働いています。
その法則とは、「本尊や法具は、その宗教にとって、思想そのものである。」ということです。
つまり、本尊や法具や建築物を見れば、その宗教の思想や願いがわかるわけです。
というか、その「思想や願い」以上の建築物や本尊や法具は、作ることができないのが宗教なのです。
その神の願いを実現しようとして、様々な「文明」が生まれます。
「文明」が生まれるためには、「価値」が必要で、それは「宗教」が元になっています。
しかし、その宗教の願いが「文明の限界」でもあるわけですね。
そして、色々な画像を見ていただいたらおわかりいただけるかと思いますが、幸福の科学の宗教施設は、どれも「美しい」という一貫性があると思います。
そして聖地エル・カンターレ生誕館においては、その美しさはもちろん、それになお、オリジナリティーとして、「とてつもなく、対象が広い。」というのがわかるんですね。
つまり、この教えが、どこまでを救済しようとしているかが、礼拝堂に入り、本尊を拝顔し、法具を見ればわかるということです。
そしてそれらを裏付ける「思想」は、もう既に、十分すぎるほどあるということなんです。
本尊が抱いているのは地球ではなく、いくつもの宇宙を包括したものです。
多次元宇宙だけではありません。
私たちが生きる宇宙以外の宇宙をも包括し、慈悲の眼差しを手向けている存在を表現しているのです。
そして、その横のモチーフに描かれているのは、宇宙樹(生命の樹)だと思われるのですが、これが東洋風とも見れるし、西洋風にも見えるのですけれども、ある意味で、古来から親しみのあるデザインです。
そして、その宇宙樹に挟まれるように、丸いデザインのものがあるのだけれど、これが原子を模した。アトミックデザインのようにも見えるし、本尊が抱いている宇宙にも見えるのですね。
それは何か、「新しさ」とか「未来的」な感覚がうかがえますが、これまた全く違和感なく理路整然と飾られている。
よく見ればこのモチーフは、礼拝堂の様々なところに飾られていて、それが全く違和感がないんですね。
そう、このモチーフには、「過去と未来と全ての価値観」というのが、混然一体となって、調和し融合している、そう「幸福の科学の思想」そのものだと思いました。
ああなんとも筆力不足で、とても書ききれないし、書きすぎてもいけない領域で難しいです。
しかし生誕館では、とても多くの奇跡が事例があります。
礼拝堂に向かう77段の階段を上った方で、ガンが消えたり、高知では、血液の病気で数か月の余命宣告を受けていた方が退院し、東京ドーム特別講演に参加できるまでに回復したりしています。
生まれ変わり、人生の再生がエルカンターレ生誕館のコンセプトとお聞きしています。
多くの方に礼拝していただきたいし、私もまた行きたいと思っています。
本日は、経典『宗教の挑戦』より、世界宗教融和に向けての思想の一面をご紹介いたします。
(ばく)
太陽の法。インカ文明。
これは結局において、造物主、創造主というものと、地球系霊団の人格神とを分けて考える以外に道はないし、そう考えることが、世界の宗教が一つになるための早道だと思います。
人格を持って地上に出てくる、あるいは霊天上界において人格を持って地上の人を指導する神というのは、この大宇宙を創った神と考えるには、スケールにおいて若干小さく見えることは否めません。
大宇宙の神自体が、人間になったり、人間を直接指導したりするというのは、やはり考えにくいことでしょう。
根源神、あるいは根本神、根本仏と言ってもよいけれども、人格を持たない巨大な創造エネルギー、根源的なる力があるということは、やはり認めるべきです。
これをいわゆる神という言葉で呼ぶかどうかは別として、根源神、根本仏、宇宙の根源、光の根源自体はある。
これを認めることが、東洋と西洋の宗教をまとめるためには、どうしても必要な考え方だと思います。
それを認めたうえで、この地球系ということに限った霊団のなかに、人格を持った偉大な神霊がいることを知るべきです。
この偉大な神霊も、九次元というところには、私が説いているとおり、十体の神霊がおります(中略)。
そして、この下になりますと、如来界というところでは、様々な宗教で神あるいは大天使と言われるような方が何百人もいらっしゃるわけです。
さらにその下の菩薩界へ行けば、万の単位の方が活躍しておられます。
そうしますと、「本来、一神教か多神教か」と言われるわけですが、それは論の立て方にもともと問題があるのです。
「一神」と言われる場合と、「多神」と言われる場合の 「神」の概念が同じではないからです。
「天使」を「神」と呼びかえると、多数の天使が実際にはいるわけですから、多神となります。
また、もし「造物主」という意味であれば、本来は一体しか存在しませんので、世界の宗教は一神にまとまるでしょう。
しかし「人格を持った神」ということになるならば、同じ一神の場合でも、これは選択の問題が発生することになります。
その民族、あるいはその地域、その宗教を特別に守護している九次元神霊を唯一と捉えるならば、これがその一神になります。
しかし、残念ながら、それでは世界を包括できていないのが、人類の歴史を見るかぎり明らかです。
砂漠の神様は、唯一の神と称されても、残念ながら全世界を統合することはできないでおります。
それはなぜかというと、結局、世界には二つの思想が流れているからです。
調和の面が強い思想と、進歩の面が強い思想が出ていて、この二つの思想は、それぞれ矛盾しながら両立しているのが現実なのです。
経典『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)P216~219
映画 「夜明けを信じて」公式サイト https://yoake-shinjite.jp/
おお、記事、書いてよかったです。
そう言ってくださって、本当にうれしいです。